JFケネディ大統領暗殺事件とスカルノ大統領 とCIA 

”これこそ探し求めていたエルドラードだ!掘り下げなくても道端に金が転がっている。埋蔵量は南アフリカの少なくとも2倍だ!オランダ領西ニューギニア、赤道付近にありながら山頂には氷河をたたえたプンチャックジャヤ山の近くの山脈一つに、オランダの調査団が金脈を発見したのは、第二次世界大戦開戦直前のことだった。

この調査団の報告はオランダ政府によって内密に保持された。タイミングの問題もそうだが、例え掘り下げる必要がないにしても、その場所は四方をジャングルに囲まれた3~4千メートル級の山の上にあり、鉱物を運び出すための道路の敷設など長期的な投資が必要だったからだった。

日本軍が敗退した後の西ニューギニアは、再びオランダによって支配された。地理的に隔絶されていることや、住民の多くがジャングルの中で生活していることもあり、ジャワ島、スマトラ島、スラウェシ島のような団結や激しい抵抗、独立運動は起こらなかった。

ちなみに日本敗戦後に、ジャワ島を中心に起こったインドネシア対オランダの戦争とは、(日本軍から訓練を受けた兵士や日本軍残留兵の協力が一部あったとはいえ)碌な装備も訓練も受けていないサンダル履きに竹槍を握った一般市民が主な戦力、対するは戦艦・戦車や爆撃機をもつ完全装備の正規軍隊の連合軍の命令に従わない形ではじまり、

衝突の度に、敵が百人なら千人、千人なら万人といった犠牲者を出し、都市をまるごと焼き払う作戦にさえ市民がすすんで協力するという団結と熱意、そして後半は日本残留兵も活躍したというゲリラ戦で持ちこたえ、4年たってようやく国際的世論の高まりとアメリカの調停が入ったことによって奇跡的に和平合意に至ったというものだった。

勿論、日本の敗戦後、旧宗主国と戦争になった国はインドネシアだけではない。ベトナムの独立戦争(インドシナ戦争)の場合は8年も続き、しかも調停によって和平どころか南北に分断され、さらにこれが火種となってベトナム戦争が20年も続いた。

それに比べれば、インドネシアが独立できたことは本当に奇跡的ともいえるだろう。冷戦体制の真っ只中で大国の介入が入れば代理戦争の戦場として長期化する恐れが十分にあった。そのときアメリカが調停に入ったのは、混乱した状態が続くことで、共産党勢力が拡大することを恐れたためだといわれている。

しかし、1949年オランダのハーグで行われた平和合意ですべてが丸く収まったわけではない。オランダは領有権をインドネシアに委譲し、独立を認めることに同意はしたが、オランダ資本の企業は特別待遇で操業を継続することになっていたし、協定を結ぶ前にいくつかの地域で樹立しておいた戦略的な地域でオランダの傀儡政権を通して影響力を維持できる目算があった。

但し、協定を締結してから1年も経たないうちに、その目算が狂う。オランダのたてた傀儡政権がそろいもそろってインドネシアに編成されることを希望し、インドネシアは連邦制ではなく共和国という一つの政府が代表する形で再スタートを切ることになる。

そこで紛争の種になったのが、1年以内にインドネシアに編入させる交渉を行うことになっていたオランダ領西ニューギニアの領有問題だ。未開発の石油や天然ガス、鉱物資源が豊富、勿論、戦争のために先延ばしになっていた金鉱脈エルドラード計画の実施も念頭に入れられていただろう。

一方、インドネシア側は、この未回収の領土に対する領有権を断固として要求した。国内の戦後復興はまだまだ手つかず、国家財政は赤字で火の車という状況にあっても、外交や軍事に力を注いで、西ニューギニアの領有権を取り戻すことを最優先とするのがスカルノ大統領だ。

”西ニューギニア問題を放置することは、植民地主義の存続を許すのと同じだ!” 先進国でない国々が主体となった世界初の国際会議、アジア・アフリカ会議が、1995年にインドネシアで開催されたとき、スカルノ大統領は、植民地主義を批判する流れから西ニューギニア領有権問題への支援を訴えた。

”アジアとアフリカは、東西の争いに利用されるのではなく、独自の価値観で未来を切り開くべきだ!人間の平和と尊厳を守るために団結しよう!参場者を兄弟と呼び、腕を振り上げ震わし、声を張り上げ、時には挑発的な強い言葉を意図的に用いる情熱的な演説。

民族も宗教も住む場所もバラバラなインドネシア国民を独立という言葉で奮い立たせ導いたスカルノ大統領の演説がこの会議によって、世界にも知れわたることになり、カリスマ性、情熱のリーダーとして注目されるようになった。

植民地主義に抵抗するため冷戦体制の西側にも東側にもつかない第三国という呼び名が生まれたこの会議は、後のアフリカ独立ラッシュにも影響を与えたという歴史的に重要な会議だったが、残念なことに、第2回及びそれ以降の開催は、スカルノ大統領の失脚をはじめとして、各国の状況の変化により本来の形で実現されることはなかった。

因みに、この会議の開催は4月、同年11月にベトナム戦争が開戦している。

スカルノ大統領の西ニューギニア返還を求める活動は演説だけではない。この会議の翌年、冷戦の親玉と批判していた米国のアイゼンハウアー大統領に申し入れ、初の訪米会談を実現させている。これは ”非同盟を掲げながらも、バランスをとって上手く大国と交渉し、頂くものは頂く” という外交の腕前を世界に見せつける機会になるはずだった。

目的は、経済援助と西ニューギニア問題でオランダに圧力をかけてもらうこと。ところが、アイゼンハウアー大統領の方は、スカルノ大統領を共産党主義寄りだと評価しており、この会談は成果を生まなかったどころか、かえって両国の関係をかえって悪化させる結果となった。

アイゼンハウアー大統領の在任中、スカルノ大統領は米国を二度訪れているが、欧米のマスコミ陣は、型破りなスカルノ大統領の行動をつぶさに面白おかしく記録、報道したので、その時の伝説的なエピソードが残っている。

政治的には歓迎されなかったスカルノ大統領だが、ハリウッドでは当時の大スターたちに囲まれ大歓迎を受けた。その際のマリリンモンローの胸元に視線がくぎ付けになっているスカルノ大統領の表情をとらえた写真は特に有名で、後日談によると、そのとき彼女にはスカルノ大統領をハニートラップにかける任務が課せられていたが、そのカリスマ性に心を奪われてしまったのはマリリンモンローの方だったという(噂)もある。

また、女性に弱いといっても、国の尊厳にかかわるようなことを言われると敏感に反応するのがスカルノ大統領らしいところ ”ある有名女優と談笑していた際、話の流れで彼女が’インドネシアへ行ってベチャ(三輪自転車のタクシー)に乗ってみたいわ”と言ったとたんに、激しい口調で応答した。

”あなたはベチャこぎという職業を良いものだとでも思っているのか、人間性を踏みにじる弱者に対する搾取だよ、搾取が首都ジャカルタの象徴だとは大変心外だ。搾取はあってはいけないんだ!” 唖然とする有名映画女優に、近くにいた仲間が ”君は大統領夫人になりそこねたな”と囁いたとか(噂)。

そして、アイゼンハワー大統領との会談ではどうだったのかというと、ホワイトハウスで約束の時間通りに待っていたのに、1時間以上も待たされ怒りだし”帰る”と言いだし、ゴネる大統領をホワイトハウス側が必至でとりなした。やっと現れたアイゼンハワー大統領は一言も謝りもせず、会談もぎくしゃくして何の実も結ばなかったという。

”全く通じるものがないことがすぐ分かった。植民地主義に苦しんでいるアジアの一国の話より、カウボーイ映画の話をしたがるようなヤツだよ’ Goto hell with your aid と言って支援を断ったこともあると後の自伝の中で語っている。

最初の訪米会談の3か月後、スカルノ大統領はソ連でフルシチョフ書記長と会談し大歓迎を受け、大規模な経済・軍事支援の約束、武器購入の支払い方法も長期の低金利払い+経済協力とのパッケージ契約といった満足のいくものだった。そして爆撃機52機、戦闘機86機、訓練機98機、ヘリコプターや潜水艦などが到着し、インドネシアも本格的な軍備を持つようになった。

それからスカルノ大統領は、インドネシア国内のオランダ資本主要企業をすべて接収し国有化するという強硬手段にでた。オランダ企業は、インドネシアの土地から資源を掘削し本国に持ち帰ってしまう。国の資源は国民のためにあるのではないか?これらの企業を国有化して、海外の支援に頼らなくてすむ独立した経済を目指そう!というものだった。

ところが、接収した企業の経営はうまくいかず、経済が大混乱に陥る。さらに中央政府に対する不信感や不満から、スマトラ島やスラウェシ島で地方の軍人や政治家を中心とした軍事的反乱が発生し、国内分裂の危機が訪れた。

スカルノ大統領は国軍を送ってその反乱を鎮圧させたが、その戦いの中で、米国製の武器や戦闘機、米国人パイロットが反乱に加わっていたことがわかり、裏には米国CIAの後ろだてがあったことにショックを受けたスカルノ大統領は、アメリカへの不信感・警戒心を強め、さらにソ連から武器を購入することになる。

この反乱軍の鎮圧は1960年ごろまで続いたが、その間、アメリカの鉱業会社フリーポートマクモラン社による、西ニューギニア金鉱脈の本格的な金鉱開発調査が行われている。キューバ革命の影響で、所有していた鉱山開発利権を失ったばかりのこの企業はニューヨークタイムスでこの鉱山のことが報道されると、すぐに活動をはじめオランダ政府から調査の許可を得た。

オランダが秘密保持しているはずの金鉱脈についての情報が何故、アメリカに渡ったのか?ニューヨークタイムスは何故突然このニュースを流したのか?アイゼンハワー、JFケネディ政権でCIA長官であった人物、アレン ダレス氏の、ロックフェラーのスタンダードオイル社や、第二次世界大戦前に西ニューギニアの金脈の調査を行ったオランダの鉱山企業の顧問弁護士を務めていたという経歴が鍵になる。

1955年のインドネシア選挙への関与、そして1958年の反乱軍への武器提供当時スカルノ大統領は要注意人物として常に監視されてたという。そして、フリーポート社は政府と密接な関係を持つ戦略資源供給企業であり、世界の資源価格に大きな影響力を持つ国際資本企業。

オランダは、鉱山利権でこの大企業を味方につければ、西ニューギニアの領有権交渉を有利に解決できると考えたのかもしれない。ところが、フリーポート社が調査を始めた2年後、西ニューギニアの領有権は、その米国の調停によって最終的にインドネシアのものとなる。

オランダが(パプア人の組織を利用して)西パプア国の独立を宣言させた1961年12月、スカルノ大統領は独立を阻止すべく軍事作戦を宣言、オランダも空軍・海軍を動員させ、いつ全面戦争に突入してもおかしくない緊張した状態が8か月も続いたが、その時調停を買って出たのがJFケネディ大統領だった。

インドネシアが共産圏になってしまうと、フィリピンやマレーシアも共産圏に取り込まれる可能性があることなどから、米国政府はアイゼンハワー大統領時代に悪化してしまったインドネシアとの関係を改善させ、戦争を回避しようとしていたという。

オランダはアメリカからの支援が得られなければ全面戦争を戦うことは難しいので、西ニューギニアを放棄するしかない。まさにこれこそスカルノ大統領の狙い通り、大国のどちら側にもつかず交渉によって、西ニューギニアの返還を達成したのだった。

”あの若い大統領は見所がある”1963年に訪米したスカルノ大統領はケネディ大統領と意気投合し、翌年にはケネディ大統領のインドネシア訪問が約束されていた。ところがその準備を進めていた最中に、ケネディ大統領がパレード中に銃殺される事件が発生する。

この事件によって、以前よりも益々、米国CIAを警戒するようになり、対抗する勢力共産党を重視するスカルノ大統領の態度に、懸念をもつ勢力と、スカルノ大統領を支持する勢力の間の対立が引き金となって、スカルノ大統領失脚の直接の原因となった1965年9月30日事件が発生した。

そして、この事件によって権力を掌握した軍人スハルトが、フリーポート社との契約書に署名したのは、まだ正式な大統領でもない臨時大統領に就任してからわずか一か月後のことだった” なんという円滑さだったろう。外資が必要で自力で交渉する余地がなかった”と説明されているけれど、やはり定められた通りの筋書きだったのか。

その契約の結果、超優遇条件によってフリーポート社がほとんどの利益を持ち帰る一方で、河川に流された廃棄物による環境汚染と土地を追い出された地元住民の貧困化がすさまじい。さらに常駐で警備にあたるインドネシア軍による地元住民に対する人権侵害、暴力行為、不法逮捕、これが現在も続くパプア紛争のはじまりだ。

スカルノ大統領は ”インドネシアの人材はまだ近代化に適応できていない。豊富な資源を外国資本に渡すのは、国の未来を売るのと同じだ”として、外資の導入には慎重だったと聞くと、あのような形で失脚してしまったことが大変惜しまれる。







一夫多妻は合法なのか?スカルノ大統領の妻遍歴

最近、日本人の元夫人が政党を立ち上げたとかでよくその名前を見かける。ステイタスとか、お金持ちとか、大多数の人が受け入れやすい考え方なのかもしれないけれど、情報が少ないからといって資源が豊かで裕福な国のイケメン大統領であったかのように解説されるのには違和感を感じざるをえない。

スカルノ大統領は、独立運動の指導者としては偉大な功績を残したが、独立した後の国家元首としてどうだったかというと疑問符がつく大統領だ。経済は困窮、外交は孤立、汚職が蔓延が向けれられるも、反対する者を排除し、終身大統領を認めさせて権力を維持するなど、特に晩年の闇は深い。

宗教的には多妻婚が可能といっても、最高4人までという制限があり、さらに先に娶った妻から許可を得ること、全ての妻を平等に扱わなければならないという条件がある。現代の社会的認識からすると、全ての妻と平等に接することは無理であることを自覚し、1人の妻にとどまれという教訓なのだという解釈が的を得ているように思うが、経済的に可能なら4人までは合法という考え方がまだまだ根強い。

合法といってもそれは宗教上の結婚が許されるだけであって、戸籍上の妻はやはり1人しか登録できない。一般的にいって十分な経済力が必須であり、社会的立場のある人物であればなおさら、そのことで評判を落とさないようにしなければならない。

スカルノ大統領は、合計9人(独立運動家時代に3度、大統領在位中に6人)の妻を娶ったとして知られているが、国のリーダーとして模範となるべき大統領の多妻婚が、自動的に国民から祝福されていたわけでは決してなく、常に社会的、宗教的、道徳的、法律的な批判と困惑が伴っていた。

スカルノ大統領の最初の結婚は20歳の時、周囲が決めた恩師の娘との結婚で、相手はまだ十代半ばだった。大学生のスカルノが妻と一緒に住んでいた下宿屋のおかみさんが、二番目の妻となるインギット夫人。

結婚したばかりの幼い妻と上手くいかない悩みごとを聞いてもらっているうちに愛が芽生えたという。お互いが離婚手続きを済ませてからの結婚。13歳も歳上の妻と暮らしたこの期間、スカルノは活動家として頭角を現し、植民地政府に逮捕され離島で暮らした時にも献身的に彼を支えたことで知られている。

しかし、40歳を過ぎたスカルノは、生徒として夫婦の家の寄宿していた少女、支持者の娘ファトマワティにプロポーズ。20歳の歳の差、彼女をまるで娘のようにかわいがっていたインギット夫人にとっては、思いもよらない裏切りだった。

#Permintaan maaf fatmawati istri bung karno kepada inggit

スカルノがインギット夫人を、子供ができないという理由で離婚。独立運動の大切な時期であり、相手が若すぎることもあって不道徳だという批判と、インギット夫人への同情が世間の反応だった。独立宣言までのスカルノを描いた2013年の映画「Soekarno」も、そのような視点で描かれている。



但しそのような評判も、その後侵攻してきた日本軍の協力者、独立運動の指導者としてのスカルノの重要な活動の方が注目されたこと、またファトマワティ夫人は独立宣言で掲揚する国旗を縫製した国民的ヒロインとしてみられるようになったことで、スカルノが初代大統領に就任する頃にはすっかり過去のものとなっていた。

ところが、オランダとの戦争が終わり新政府が樹立されてから間もなく、ファトマワティ夫人が5人の子供を連れて大統領宮殿を去ることになる。原因となったのは、ハルティ二夫人。スカルノ大統領がジョグジャカルタで式典に出席した際、地元の婦人会によってふるまわれた昼食の伝統料理ロディが美味しかったとかで、大統領が誰が料理したのか尋ねたのが最初の出会いだったという。

#Hartini Isteri keempat 

スカルノ大統領の方は”公式の場には出さないから、彼女を第二夫人として宮殿の一つに住まわせたい” と約束し納得させようとしたが、ファトマワティ夫人は、断固として重婚を受け入れなかった。彼女の家族は、イスラム教の伝統的な悪習慣を改善し近代化を図ろうという宗派の熱心な活動家であり彼女自身も活動家であったことを考えれば、重婚を認めろという方が無理であったと思われる。

夫人はさらに”国民にとって悪い見本となる”ことについても懸念していた。独立戦争終了後、発足したばかりの新政府は、公務員の道徳基準を維持するために、重婚を禁じる法律を制定したばかりでもあった。

大統領は”あなたとの出会いは私の運命です”という熱烈なラブレターを何度も送って求婚した。ハルティ二夫人には離婚歴があり、前夫の間に子供が5人いた。そうではあっても、ジャワの裕福で由緒正しい家柄の出身であり、第二夫人になるだなんてとんでもないと家族からは猛反対を受けた。

乳飲み子を抱えて出て行ったファトマワティ夫人は二度と夫の元に戻ることはなかった。しかし、大統領は別居後もファトマワティ夫人との間の戸籍上の離婚手続きを行わず、ファトマワティ夫人の大統領夫人としての地位は、スカルノ大統領失脚の時点まで変わることがなかった。

#Kisah sukarno ditinggal fatmawati

第二夫人、大統領夫人の代役として公の場に登場するようになったハルティ二夫人だが、国民からはパッシングを受け、最も国民から人気のない大統領夫人だと評価された。それでも肝の据わったひとであったらしく夫が次々とあたらしい妻を迎えたからといって、去ることもなく、後にスカルノ大統領が失脚し、病院で孤独な最期を迎えたときも最後まで寄り添い看取ったたった一人の妻でもある。

スカルノ大統領から離れていったのはファトマワティ夫人だけではない。1956年、独立運動の時からずっとコンビだった副大統領のハッタ副大統領も、大統領との意見の相違からついに副大統領を辞任し政界を去った。論理的で現実的、スカルノ大統領とは互いの欠点を補い合う関係だったが、議会民主主義を維持するか大統領の権限を強化するかで意見が分かれたという。

1955年に行われた初の民主主義選挙により選出された国会は、政党間の対立が激しく何度も閣僚の入替えが発生するなど大変混乱した状況にあった。スカルノ大統領は、「西洋的な民主主義は機能しない」と主張し、ハッタ副大統領は独立の理念である議会制民主主義の維持と地方分権を主張した。

#Hatta meninggalkan soekarno

ハッタ副大統領が去った後1957年、スカルノ大統領は、指導民主制を提唱し大統領の権限を強化、同年末、西ニューギニア領有問題で対立していた旧宗主国オランダ資本の銀行、石油、海運、農園企業に、軍隊を送って占拠、国有企業として接収する。

天然資源(石油、ゴム)の世界的需要は好調であったが、接収後、インドネシア政府主導の企業経営は能力不足で大混乱、利益が出ない一方で汚職が蔓延し、資本撤退、対外関係も悪化。オランダは米国にも協力を要請し西側諸国からの経済制裁を受けることになる。

財政赤字を埋め合わせるため、政府は紙幣を大量増刷してインフレが加速、地方の経済も大混乱の中、農園・鉱業・石油産業のオランダ企業の拠点であったスマトラ島、スラウェシ島では、地方軍・政治家が反乱を起こした。政府が接収した企業の経営が中央の官僚や軍人に任されて、地元には何も還元されないという不満によるものだった。

スカルノ大統領は国軍を派遣し何年かかかってこの反乱を鎮圧した。その際、追撃された爆撃機などから、この反乱に米国が関与しCIAからの資金・武器提供、傭兵派遣があったことも発覚した。これによって、スカルノ大統領は西側諸国への不信感を深め、またこの反乱鎮圧によって影響力を増した国軍に対抗するために、ソ連・中国側からの武器提供や資金援助を積極的に受けるようになった。(これが後に失脚の原因につながる)

実はこの混乱の最中に、大統領は5人目の妻、カルティニ夫人と交際していた。夫人との出会いは、大統領が展覧会で見かけた肖像画が大変印象深かったとのことで、モデルになった女性がガルーダ航空のスチュワーデスであると知ると、大統領が出張の度にアテンドに着くことが彼女の任務になったという。

Kartini manoppo Isteri kelima

彼女もまた由緒正しい家柄の出身で家族から猛反対を受けていた。出身地は反乱がおこっていた北スラェシである。1959年に非公式の結婚、1967年ドイツで男児を出産した。それは国の情勢が不安定だからという理由からだったそうだが、夫人はその後も長く海外で生活した後、帰国したとも離婚したとも言われているがはっきりとした情報はない。

1959年はスカルノ大統領が一党独裁的な体制に移行する大統領令を発行し、議会制民主主義を終わらせた年でもある。中国、ソ連、日本からの経済支援を受けるが経済効果を生まず、物価高騰、物資不足、失業増加、でインフレ率は1000%にも達した。

スカルノ大統領が6人目の妻、19歳のデウィ夫人を娶ったのはそのような状況下だった。当時の学生デモは、大統領は国民のことを全く気にかけていないと猛烈に批判した。夫人の贅沢な暮らしぶり自慢は、困窮の只中にある国民の感情を逆なでし、スカルノ大統領に対する不満の声を更に高めるものだった。

デヴィ夫人と大統領の結婚は1962年、しかしそれ以前にスカルノ大統領には、もう一人の日本人妻がいた。1958年に京都で出会い翌年1959年に、大統領が再び来日した際に結婚、イスラム教徒になり改名もして南ジャカルタの高級住宅街に邸宅を与えられ暮らしていたが、わずか何カ月後、浴室で手首を切り自ら命を絶ち現地で葬られたという。

このことついては、日本語版ウィキペディアに書かれている(金勢さき子さん)

命を絶った理由は、デヴィ夫人への嫉妬であったということなので、結婚してジャカルタに住み始めて間もなく、大統領が別の日本人と交際を始めたことを知って命を絶つことを決めたようだ。彼女の名前は9人の妻の中には入れられておらず、”忘れられた日本人妻”として紹介されることが多い。

Sakiko kanase istri yang dilupakan

大統領は1960年に国会を解散、新たな体制下で共産党が大統領の支持を得て勢力が拡大、マレーシアの独立問題をめぐって西側諸国との関係が完全に悪化する一方で中国共産党と接近していく。このような左傾化が国軍と共産党勢力の関係を緊迫化させる。

1965年にはインフレ率600%ににも達し、その年の9月30日、スハルト陸軍少将(後の二代目大統領)が権力を掌握するきっかけとなる軍事クーデター未遂事件が発生し、スカルノ大統領は徐々に権力を失い1967年に失脚する。

そのような中で、1963年に7人目(23歳の大統領府芸術分野の職員)、1964年に8人目(学生代表として、式典で使用するものをお盆に載せて大統領に渡した高校生)1966年に9人目(大統領宮殿での式典に参加するために選ばれた雑誌の表紙にも載ったことのある賢くて美人な19歳)といったように立て続けに新しい妻を娶っている。

いったいそのように沢山の妻を娶ることにどのような意味があったのかは分からない。現在となっては、武勇伝として語り伝えられるばかりだ。デヴィ夫人についてビジネス的な後援者が背後にいたということはよく語られることだが、他の夫人についても同じようなことがなかったともいえない。

国民として戸籍上登録が認められているのが1人であるならば、宗教婚で4人までオッケーだなんていわずに’愛人’と訳せばよいのにと思いながらも、それも微妙だなと思うのでそのまま妻で統一した。

スカルノ大統領の失脚後、二代目大統領に就任したスハルトはスカルノ一族を大変冷遇したので、元妻たちは(1人を除いて)その後一般人として質素に目立たぬように暮らしたという。

そうではあっても、独立運動時代のスカルノ大統領が提唱した国家理念は、独立運動、独立戦争を通じて国民を鼓舞し、団結を促した重要な要素であり、そして現在までも精神的な支柱になっているということは疑いようがない。

大統領の独立運動家時代の話も過去に書いているので、あわせてお読みいただければと思う。

国民的英雄スカルノ大統領はここから始まった

日本軍統治下で売国奴と呼ばれたスカルノ大統領

トップシークレットだった日本軍の敗戦 独立宣言前夜とスカルノ大統領夫人

G30 から1998年スハルト政権退陣後まで 

ショベルカー2千台上陸で消滅危機最後の楽園 バイオ燃料促進の行き先 

縄文時代の終りは、狩猟採取から稲作を中心とした生活スタイルの変化に関係するというけれど、インドネシアのパプア州には現在でも、狩猟採取で自給自足の生活を送っている300もの部族が存在する。

彼らの主食は、サゴヤシ。熱帯雨林のジャングルの中のいたるところに生息し、切り倒した後の根から新芽が出てくるから、植え付けも必要なし。天候に左右されず、肥料も農薬もいらず、草刈もりもいらない。

サゴヤシから取り出した澱粉を水で溶いて葛湯のようにして、魚のスープなどを添えて食べる。グルテンフリーで消化がよい、血糖値の急激な上昇を抑えるなど、身体によいことばかり。ご飯とは違った満腹感があって、胃の負担が軽い。

そんなお粥みたいな食事、病人でもあるまいし、と思うかもしれないが、伝統的にサゴヤシを主食とするスラウェシ州のマルク人は、精神的にも肉体的強靭、優秀な兵士であったことで知られている。

1本のサゴヤシから100キログラムの澱粉がとれる効率の良さ。異常気象やら農業労働者の不足などに左右されない。サゴヤシを主食としている限り、買い占められることもなく、価格の高騰に苦しむこともない。

気候変動、食料不足が社会的懸念がこれからますます深刻化するであろうといわれる現代ににあってサゴヤシ澱粉が、脚光を浴びるのであればどんなにいいことだろう。しかし、サゴヤシの生息する熱帯雨林のジャングルは、鉱物資源採掘や油ヤシ農園への転用などによって激減の一途をたどっている。

インドネシアの法律では、熱帯雨林は伝統的な生活する人たちのために保護しなければならず、開発は環境への影響を考慮して慎重に行わなければならない。しかし、法律の抜け穴をついて経済的な利益を独占しようとする事業家が昔から後を絶たない。

アブラヤシ油は、世界で最も安い低価格の油、スナック菓子やチョコレート、アイスクリームやマーガリン、調味料や石鹸、ボディソープや化粧品など、植物性油脂として世界各国の工業原料として確実な需要がある。

低価格の理由は、単位面積当たりの集油量が高いこと、手間をかけずに大量に収穫できる。そして輸出による収益が期待できることから、資本家/政治家はより広い土地を占有しようとし、自然保護区の森林に手を伸ばす。

一時期深刻な問題だったシンガポールで深刻な煙害(ヘイズ)を度々発生させるカリマンタン島やスマトラ島の森林大火災が、貧しい農民の焼き畑農業だというのは大嘘。考えてみればバナナでもヤシで木さえあればいくらでも収穫できる大切な森林を零細農家が焼き払うはずがない。

火災の目的は、焼けてしまった場合の特例を利用して、企業が油ヤシ農園としての転用許可を得ることだ。しかしもう何年も、大きな森林火災や煙害の話を滅多に聞かなくなった。政府は”森林火災だけでなく森林破壊率も含めて過去20年間減少した”と国際的な場でアピールしている。

森林火災の激減した理由は、熱帯雨林を伐採して農地に転用する許可を大幅に緩和する政府の投資家優遇政策が推進されたのと対比していることから明らかだ。環境への影響に関する調査レポートが、後付けで許可が下りるほど、手続きが大幅に簡易化され、基準が不透明な森林開発許可が激増した。

政府が公表する森林破壊データは、森林を伐採して油ヤシ農園に転用されたものは(同じ緑色だから差し引きゼロという計算で)森林破壊に含められていないので、どのくらい熱帯雨林が消えてしまったのか実態が非常に分かりずらくなっている。

しかし、衛星写真を解析すれば、熱帯雨林の濃い緑色の中の至るところに人工的に植えられた油ヤシ農園の幾何学的な薄緑色が存在することは、欧米先進国の科学者や研究機関によって既に分析・研究されており、ヤシ油がEUの森林破壊防止規則の輸入禁止対象品目にされたのもそのためだ。

研究結果によれば、多様な植物と動物の生態系である熱帯雨林を、単一植物を植える油ヤシ農園に転用させることは、生物多様性を喪失させ、土壌を劣化させる、加工過程で発生する排水や二酸化炭素よりも強力な温室効果ガスであるメタンガスを発生し、かえって温暖化を加速させる。

欧州への直接的な輸出は少ないものの、間接的な工業製品の輸入も制限されるとなると需要は減退するかもしれない。さらに、より安価な植物性油脂を科学的に生成させる技術開発が近い将来に適用可能になる可能性がある。そこで政府は、トラックや船、ディーゼル車の燃料である軽油に、パーム油を混合させることを義務付け、国内の消費で需要増をはかっている。

2023年に35%、2025年からは40%と、段階的にパーム油の比率を上げて、石油の輸入を減らし、外貨を節約するのだという。但しパーム油の市場価格は変動が激しく、今のところ一定して軽油よりもコスト高であるため、政府が特定の生産業者に補助金を支給し差額を補填している。

政府が森林開発許可を大幅に緩和する一方で、自然の排水システムが破壊されて降雨の度に浸水する災害地帯が激増している。パプア州のような伝統的な生活の場である森林が破壊され、水質汚染、食糧不足、漁業や零細農業の破綻、栄養失調やこれまでにない病気に苦しめられるようになり、そしてジャカルタ西沿岸部PIKで起きている土地収奪や脅しは、は地方に行くほど更に激しい。

先日、大統領は演説の中で”バイオディーゼル促進のために森林破壊を恐れてはならない”と断言していた。前任の大統領から引き継いだ政策ではあるが、プラボウォ大統領自ら押せ押せで推進しているのは、自らも広大な油ヤシ農園を経営しているせいなのか。ジャカルタ西沿岸部のPIKのように見直すなどという話は今のところ出てきそうもない。

国内のメディアではしきりにバイオディーゼルを”環境に優しい”とか”世界で初めて我が国だけ”と持ち上げているが、これほど食料の懸念が世界的に注目されている中、食用に使える油を、わざわざ燃料として燃やしてしまうのは、正気の沙汰と思えない。

さらに悲報なのは、最後の熱帯雨林地帯パプア州のマラウケ市に2000台のショベルカーが上陸したことだ。上海の企業に、異例の大量発注をした事業家はカリマンタン島の木材で財をなし政界で権力を握る有名実業家、農業大臣は彼の従弟だ。

この事業家は、バイオディーゼルとは別の、食糧危機に備えるためのフードエステートという政策の実施を政府から一任されている。新政権が発足して間もなく、ショベルカーが上陸し、マラウケ市の三百万ヘクタールという北海道の三分の一の面積にも相当する森林が伐採された。

計画によれば、稲作水田(cetak sawa)、又は砂糖の原料であるとうきび畑に変えるという。1年半ほど前に、カリマンタン島でオラウータンの生息地を含む森林2万ヘクタールが伐採されて、キャッサバ芋が植えられたが2年経っても収穫がゼロというニュースが炎上し、森林伐採を止めるよう世論が盛り上がっていたが、結局計画の見直しはなかった。

熱帯雨林を切り開いた土地の農業利用は、そうでない土地よりも難しい。出来ないことはないが、コスト高で失敗するリスクが高い。スハルト大統領も、ユドヨノ大統領も、食糧確保のためとして同じ政策を実施したが、失敗に終わった実例がある。

稲作に適している中部、東部ジャワの農地を整備し、農民を活性化することはせず、生産性のある森林をわざわざ伐採して農地に転用しようとするのか。

”食糧確保は広大な土地を切り開くための口実で、森林の木材を売り払った利益を懐に入れ、農業は失敗させて油ヤシ農園にするのが本当の目的?”というのはいかにもありそうなことではあるが、増々濃厚に見えてくる。そして切り倒した木材は何処に消えるのか。

2千台のショベルカーは、これからどれだけパプアの森林を破壊するつもりなのだろうか。まるで戦車が上陸したのと同じように恐ろしいことだ。

パプア人は5万年も前からのこの地に住み着き、王に支配されることもなく現代まで、首長・長老に率いられる部族がそれぞれの言葉を持ち、ルールに従って暮らしてきた稀にみる民族。ご先祖様の名前も、いつから自分たちがこの森に棲んでいるのか知っているのが本物のパプア人だという誇りを持っている。

パプアの鉱山開発は以前から、環境破壊、土地収奪、人権侵害、伝統文化の破壊、貧困と飢餓が深刻であることが伝えられてきたが、これからはヤシ油農園によってさらに森林破壊がすすむ。そんな中で現地の情報を発信して反対を訴えている伝統的生活を守ってきた人たちの話を聞くと悲しくてたまらなくなる。

サゴヤシの澱粉を使ったパプアの伝統料理パぺダを食べてきた。辛くなくて何故今まで試してみなかったのかと思うほど、美味しかった。胃腸の弱ってきた年ごろには丁度いい。サゴヤシ澱粉は日本ではタピオカ粉の代用か工業用の糊として利用される安価な材料だそうだが、お米が高い今だからこそもっと注目されればいいのになと思った。


パプアフードエステートのために切り開かれた熱帯雨林
(Kompas TV)

大橋を渡ったらそこはC国だった 血も凍る土地収奪キャンペーン

ジャカルタ西沿岸部の大橋を渡り終えると、そこはまるで別の国のよう。大通り沿いは完成したばかりの全く新しい大型の建造物が整然と並んでいて、一般庶民の移動手段であるオートバイ一台走っていない。右を見ても左を見ても看板の文字が全てC国語だけであるところをみると、ここはインドネシア人向けの街でない。

日本やシンガポールでもC国人移民が増えているというけれど、ここの場合は都市ごと引っ越してきたみたいな感じだ。インドネシア語をみかけることができるのはフードコートの看板ぐらい。そのフードコートの屋根や門の装飾も本場のC国そのもの。道の真ん中に置かれたアイコンの彫像も金の龍。

区画につけられた名前は、マンハッタン、ブルックリン、レジデンスアムステルダム、フロリダ、カリフォルニア、トウキョウ、オオサカ、オキナワ...海岸公園の名前はアロハ 


ジャカルタの西側、スカルノハッタ空港から10分の距離この県は、伝統的な礼拝所が多い漁師町で人口過密地帯だったところ。オランダに服属されるまで300年近くイスラム教の王国があったところだが、何故突然、C国都市に変身してしまったのだろうか。

反対運動の第一人者である元国有企業省副大臣サイドディドゥ氏の話をまとめてみた。ディドゥ氏が、現地を訪れて住民の声を代弁するようになったのは昨年4月、政府がPIK2を国家戦略プロジェクトとして認定したときからだった。

PIK2とは、インドネシアの経済を牛耳ることで知られている中国人実業家9人の一人A氏のコングロマリット企業による不動産開発プロジェクトの名称。A氏と、10月で任期を終えたばかりのJ元大統領との蜜月な関係は、以前からよく知られている。民間事業として既に進められていたPIK2が、突然、国家戦略プロジェクトに認定されたのは政治的な意図が隠されていることは間違いない。

国家戦略プロジェクトとは、国家的に重要なインフラ建設事業であると政府が認めた案件に対し、政府が、特別な許可や土地収用などの優遇措置を与える制度。

スラウェシ島のニッケル鉱山精錬所開発や、バンドン高速鉄道など、(実態はどうであれ、形だけでも)計画の段階では、少なくとも時間をかけて検討され、開発均衡・雇用創出など何らかの社会的な利益があるものでなければならない。

PIK2は民間の不動産開発なので、国家戦略と銘打つには無理がある。政府が国家戦略プロジェクトと認定したのは、観光庁が申請した沿岸部のマングローブ公園、埋め立て地のゴルフ場と国際的なF1サーキット場建設。商業施設や住宅建設は含まれていない。

ところが、中央政府、地方政府、地元住民の権利を守る立場にある町内会長や区域の班長ら、さらに警察もやくざも一緒になって、PIK2は国家戦略に認定されたのだから、A社に土地を売り渡さなければならないと、住民に土地を今すぐ手放すよう強いる大キャンペーンが繰り広げられた。

そのやり方とは、買収ターゲットの住民宅を、毎晩訪問し、売り渡すよう説得する。どの地主も売りたくないのは当然、現地での主な産業は農業、漁業。水田や養殖場などは売渡してしまえば、住む場所も仕事も失ってしまう。

国家戦略プログラム対象地域だからどうしようもない、というのならせめて土地標準価格でということになるが、業者の提示する価格は1平方メートルあたり5万ルピア(5百円くらい)ジャカルタから1時間以内であることからすると冗談としか思えないような金額だ。これでは新しい家を買って移り住むどころではない。

土地標準価格は通常、地域の税務署が毎年更新する土地標準価格表に参照する。土地税はこの価格に従って課されるもので、街中の土地は高く道路から遠いところ安くなど、価格にばらつきがあるのが通常だが、このプロジェクトを支援するための優遇措置の一つなのかどうかは不明だが、全域一律5万ルピアに変更され、業者はこれを交渉の根拠としているのだった。

土地標準価格は、課税価格でもあるから、これは業者にとって買収後の節税対策になるが、国にとっては税収の大幅な損失となる。国家戦略のためにここまで優遇してよいことになっているのかどうなのか、そういうところをぼやかして先行実施するのが組織的犯罪というもの。ディドゥ氏によればこれは明らかな汚職スキャンダル案件。

土地を売り渡すことを丁寧に断わっても、土地証書に問題があるとして警察から呼びだされる。”不服があるのなら裁判所に訴えればいい” というが、司法も買収されているのでまともな裁判など期待できるはずもない。

父親の遺産7ヘクタールの土地を業者によって断りもなく更地にされたCさんの場合は、土地証書が国土庁によって無効にされたことに対し訴えをたてたが、2カ月間留置所に入れられた。弁護士の勧めで、土地の権利に対する請求を止める書面に署名することと交換条件にやっと釈放してもらうことができた。

”30年間も税金を納め続けてきたのに、土地証書なんてなんの意味もなかった” 7ヘクタールの土地は、丸々無償で業者に渡された。

また、生産性のある水田や養殖所を売り渡す場合は、通常の土地よりもよりも高値で取引されるのが通常だ。ジャワ島以外の地方ですら1平方あたり少なくとも100万ルピア以上だが、首都ジャカルタから1時間の距離にある水田を、これもたったの5万ルピアで手放すなんて受け入れられるわけがない。

”今、手放さないと、水路がふさがれて収穫できなくなりますよ” それでも売り渡すことを拒否した場合は、やはり土地の証書に問題があるといって警察から呼び出しを受け、裁判もなく投獄される。そして次の買収対象の村人はその話を聞いて恐ろしくなり、業者はよりスムーズに土地買収をすすめることができる。

高さ2メートル10キロメートルにも渡って左右を高い壁で囲まれた集落がある。壁の向こう側には高層アパート、開発済みの建造物は盛り土をした上に建てられているので、この集落のある場所だけが低くなり、水はけが悪くなった。

雨が降ると胸まで浸水し、何日も水が引かない。生活道は劣化がすすみ穴だらけの道を、遠回りして漁に出かける。そんな中でも団結して闘い続けている集落もある。

”遠くのパレスチナより、近くにあるパレスチナのことをかんがえてくれ” ”これは莫大な規模の土地没収と貧困化のための政策だ” ディドゥ氏が住民の声を代弁する活動を始めて最初の頃は、批判も多かった。しかし最近は、批判よりも応援してくれる人が増えてきているという。

ディドゥ氏は、現地を訪れる時は携帯も持って行かない。護衛を連れて歩けば護衛が買収されて逆に命を狙われる危険があるの。常に命を狙われる危険と隣り合わせ、警察に呼び出され逮捕されるかという時期もあったが、ネットを通した支援運動によって免れることが出来た。

国家戦略プロジェクトは、マングローブ林の保護ということになっているが、元々あったマングローブ林はそれほど広くない。そこで業者はマングローブを植えて、対象区域を延長させているのだ。戦略プロジェクト指定される前のマップにはPIK3~PIK10という番号がふられていたが、 国家戦略プロジェクトに指定されてからは、全てPIK2に書き換えられた。

海岸線30キロメートル2つの県にまたがり9つの郡が既に買収済み、業者はさらに西へ40キロメートルジャワ島の西端にまで拡大を予定している。これが実現すると、シンガポールの3倍の広さにも相当する。

インドネシアでは外国人が不動産を所有することは以前から厳しく禁止されているが、この国家戦略プロジェクトの特別待遇のような措置により、一定の条件で外国人が不動産を購入できるようになっていて、C国語しか話さない住民が多数を占めているという。

昨年、繊維産業を倒産ラッシュの元凶となった、関税を払わない格安輸入品の業者の住所がみなこの沿岸部にあるとネット民が騒いでいたことがあるのを思い出した。ディドゥ氏によると、沿岸沿いを独占されると、麻薬や武器、違法な輸入、違法外国人の出入りが簡単に出来ることになってしまう。

税金を逃れる経路となって国として成り立たなくなる。富が一か所に集中し他が貧しくなり、分裂が起る。”沿岸部を個人の占有スペースにすることは、国防上非常に危険である”とディドゥ氏はいう。

同じことは既に、レンパン島でも、カリマンタン島でも、スラウェシ島でも起こっている。J元大統領政権の10年間、国家予算、借金までして毎年何百もの国家戦略プログラムをすすめてきたが、その実態はこのPIK2と同じように、一部の資本家の利益になるだけで国には何ももたらしていないということは、もう隠しようのない周知の事実だ。

じつはがっつり中国化だったヒリリサシ政策

J元大統領が自分の後任を決める大統領選挙にあれほど執拗に介入したのも、このプロジェクトを守るため。しかし現政権にとって、経済効果を生まないどころか政権を揺るがしかねないこれらのプロジェクトはお荷物でしかない。

不動産開発を否定するものではないけれど、特別待遇は止めてほしい。土地証書があるのに、土地庁が勝手にデータを変えてしまうことができるだなんて怖すぎる。

ジャカルタという都市も元々は小さな漁村で、東インド会社が貿易の拠点にする目的で、全オランダ式で、オランダ人だけのための街として築かれたものだった...歴史が繰り返されないことを祈る。

じつはこのPIK2では、陸地の土地問題だけでなくて、海上においても、今まで聞いたことのないような手の込んだ収奪未遂事件が発覚している。さらにこの開発業者は新首都ヌサンタラとも関係してくるのだが、順を追ってまた別に書く。


パレスチナ問題についてイスラム教圏ではこう伝えられている

ゴールド高騰の影で消えていた漁村 ードキュメンタリ映画ー東からの風ーより


あるあるでは済まない途上国警察 一線を越える

貸し出した車に取り付けてあったGPSからの信号が途絶えたのに気付いたのは、オーナーの長男だった。3個装着したうち2個の信号が一度に消えたということは、故意に取り外されたに間違いない。残った1つのGPSの信号を頼りに、自動車レンタル店のオーナーと二人の息子、従業員数人が2台の車に乗って追跡に出かけたのは年が明けたばかりの夜10時過ぎだった。

問題の車が走行しているのを見つけたのは隣県の路上だった。”この車はだれのものですか”とオーナーが話かけると、乗っていた二人のうち一人がピストルを取り出し”どけ、俺たちは海軍だ。どかないと撃つぞ” と脅してきた。

”穏やかに話しましょうよ” レンタル店のオーナーは、この商売を始めてから十数年。もう何度も乗り逃げされそうになった車を追跡しては取り戻す経験を持つ。決して高飛車に怒鳴りつけたりしたわけではない。

穏やかでない雰囲気に、やじ馬が集まりはじめたそのとき、後方から黒い車が近づいてきて従業員らの乗る車に追突。そのどさくさに紛れて、問題の車も走り去っていった。そして深夜のカーチェイスが始まった。

相手は拳銃を持っている。途中、オーナーと息子たちはグーグルマップで最寄りの駐在所を探して立ち寄り、事情を説明し、相手は銃を持っているので同行してくれるようお願いすると、夜勤中の警官は、手続き上の理由で同行を拒否。署長に電話で尋ね、だめだと言われてもいたようだった。

そこでオーナーは、警官にものを頼むときの常識”お疲れ料”を差し出したが、それでも警官は断り、自分たちで探すよう促した ”ここへ連れてきたなら手助けできる。拳銃だって本物とは限らない”とまで言い放った。

残ったGPSが外されてしまえば車を取り戻すことが出来なくなる。警官の助けがなくても、オーナーと従業員らは追跡を続けた。例の車が高速道路のレストエリアに入ったことをGPSが示したのは明け方4時近く。従業員らは徒歩で、レストエリア内に駐車しているはずの問題の車を探し、コンビニエンスストアの前でそれを見つけた。

運転手は、仮眠をとっているらしい。従業員らは男を取り囲み、拳銃を差し出すよう詰め寄っていた。その時、背後から突然の銃声。少し離れたところに例の、あの黒い車が駐車していた。銃弾の音は4発5発。その一つが、オーナーの次男の耳たぶをかすめ、全員が散り散りになって逃げたので撮影していた画面もここで途切れてしまう。

銃声が止んだようだと恐る恐る戻ってきたとき、従業員の一人とオーナーが撃たれたことを知った。オーナーはコンビニエンスストアの中で倒れ床には大量の血が。胸を撃ち抜かれ、病院に運び込む途中で亡くなった。もう一人も左腕を撃たれ重傷。
現場の監視カメラ映像

警察は権力者や富裕層のためにあるもの。警察に助けを求めれば賄賂を要求され、通報すれば、通報者が逮捕される。期待するなといわれても、こういう場合に一体だれに助けを求めたらいいのか。

12月にも、ジャカルタでこんなことがあった。年に一度開催されるアジア一の大規模なダンスフェスティバル、世界的に有名なDJが出場するということもあり、タイ、マレーシア、シンガポール、をはじめとするアジア各国から、ジャカルタに飛来したファンたちが野外会場に詰めかけていた。

熱気あふれるステージの真っ最中、近づいてくる私服の警官は、麻薬取締官を名乗り、パスポートの提示を求め、尿検査を強要。結果が陰性であっても、パスポートを返す代わりに、二十万ルピア(二千円くらい)支払うことを要求してくる。場合によっては何千万ルピアも請求され交番に監禁されたり、翌日ホテルまで警官がやってきて支払いを強いられた観客もいた。

”こんな不快な体験をしたことがない” ”ジャカルタでのフェスはもう二度と行かない”  
マレーシア人450人から巻きあげた金額は、3億2千万ルピア(320万円)にも上るという。被害者らは、帰国後ソーシャルメディア上でインドネシアの警官から受けたこの屈辱的な体験をぶちまけた。

警官の不正行為が横行しているのは何もインドネシアだけではない。しかし、どの途上国でも決してやってはならないルールというものがある。それは観光客にだけは手を出してはいけないということだ。悪い評判によって観光客の足が遠のけば、地域の経済に直接影響する。

以前、米国の有名歌手テイラースウィフトの経済効果ということが話題になったことがある。航空券、ホテル、レストランや観光やおみやげ、たった6日の公演だけでシンガポールの経済成長率を0.2%押し上げたという。

その時、シンガポール政府が、他のアセアン諸国で公演しないようインセンティブを支払っていたことについて周辺国と摩擦が起こったが、インドネシアも抗議した国の一つ。

フォーブスJAPAN2024年3月シンガポール首相、テイラー・スウィフトとの密約

AIによれば、東南アジア主要都市の首都圏人口は、ジャカルタ3400万人、マニラ1348万人、バンコク1400万人、ハノイ859万人、シンガポールは591万人。

人口からみた潜在性でいえばジャカルタで公演するのが最も効率がよさそうだけれど、残念ながら肌の露出が多い衣装がトレードマークのアーティストがやってくると聞くと、過敏な保守的イスラム教団体が抗議デモがおこす。

衣装に問題がなくても、LGBTを支持しているという批難され、英国のロックバンドコールドプレイが公演を取りやめたことがあった。それに比べて、このダンスフェスは電子音楽がメインで、文句のつけようがないイベントのはずだったが。

いつものことだが、炎上してはじめて国家警察が内部調査を始める。実行犯の警官18人が拘束された。事件発覚当初は異動処分だけで済まそうとしていたようだが、高官3人が国家警察の倫理裁判の結果、懲戒免職処分となった。部下がやったことは隠しようがなく、命令されたことも明確だ。

#Donald Simanjuntak

国家警察官候補生学校(Akpol)出身の超エリート。いくつもの地方警察署長を歴任し、
麻薬取締部高官としてはシンジケートから麻薬を押収するなどの功績もあげている。部下たちに、会場で麻薬陽性者をみつけるよう指示され、多く見つけた者には褒賞を約束していた。巻きあげた金を振り込む銀行口座名(弁護士名)まで指定していた。

こんな超エリートが3億ルピア程度のはした金を集めるためにわざわざこんな目立つところで騒動を起こしたとは考えにくい。とすると、ジャカルタのイメージを下げ、次回から開催地として外したい側からの依頼によるものだという説も、あながち陰謀論ではないようにもみえてくる。

前述のオーナー射殺事件でも、海軍特殊部隊のメンバー3人が犯人であることが分かった。軍は内部調査を行うとのことで、今のところ公開されているのはイニシアルだけだ。使用した拳銃も軍務のためにSOPに従って所持しているものとのことだが、躊躇なく一般人に銃を向け、頭や心臓を一発で狙って撃っているところが恐ろしい。

これはもう”個人的な犯罪”と言っていい範囲を超えている。このままでは、軍隊の武器を使って軍人が、窃盗を行い、警察もそれを容認しているということになってしまう。

ブラックマーケットでは、盗難品とあらかじめ分かっている車両が売買されているという。レンタル車に設置されているGPSは、車を分解しなければ外せないように設置されているが、そのGPSを外すサービスを提供する公告もフェイスブックなどで簡単に見つけられるそうだ。

インドネシアでのビジネス難易度が高いといわれるのも無理ないことだということをつくづく思い知らされる事件だった。

#Kasus penembakan Bos Rental 

#Kasus DWP2024