”これこそ探し求めていたエルドラードだ!掘り下げなくても道端に金が転がっている。埋蔵量は南アフリカの少なくとも2倍だ!オランダ領西ニューギニア、赤道付近にありながら山頂には氷河をたたえたプンチャックジャヤ山の近くの山脈一つに、オランダの調査団が金脈を発見したのは、第二次世界大戦開戦直前のことだった。
この調査団の報告はオランダ政府によって内密に保持された。タイミングの問題もそうだが、例え掘り下げる必要がないにしても、その場所は四方をジャングルに囲まれた3~4千メートル級の山の上にあり、鉱物を運び出すための道路の敷設など長期的な投資が必要だったからだった。
日本軍が敗退した後の西ニューギニアは、再びオランダによって支配された。地理的に隔絶されていることや、住民の多くがジャングルの中で生活していることもあり、ジャワ島、スマトラ島、スラウェシ島のような団結や激しい抵抗、独立運動は起こらなかった。
ちなみに日本敗戦後に、ジャワ島を中心に起こったインドネシア対オランダの戦争とは、(日本軍から訓練を受けた兵士や日本軍残留兵の協力が一部あったとはいえ)碌な装備も訓練も受けていないサンダル履きに竹槍を握った一般市民が主な戦力、対するは戦艦・戦車や爆撃機をもつ完全装備の正規軍隊の連合軍の命令に従わない形ではじまり、
衝突の度に、敵が百人なら千人、千人なら万人といった犠牲者を出し、都市をまるごと焼き払う作戦にさえ市民がすすんで協力するという団結と熱意、そして後半は日本残留兵も活躍したというゲリラ戦で持ちこたえ、4年たってようやく国際的世論の高まりとアメリカの調停が入ったことによって奇跡的に和平合意に至ったというものだった。
勿論、日本の敗戦後、旧宗主国と戦争になった国はインドネシアだけではない。ベトナムの独立戦争(インドシナ戦争)の場合は8年も続き、しかも調停によって和平どころか南北に分断され、さらにこれが火種となってベトナム戦争が20年も続いた。
それに比べれば、インドネシアが独立できたことは本当に奇跡的ともいえるだろう。冷戦体制の真っ只中で大国の介入が入れば代理戦争の戦場として長期化する恐れが十分にあった。そのときアメリカが調停に入ったのは、混乱した状態が続くことで、共産党勢力が拡大することを恐れたためだといわれている。
しかし、1949年オランダのハーグで行われた平和合意ですべてが丸く収まったわけではない。オランダは領有権をインドネシアに委譲し、独立を認めることに同意はしたが、オランダ資本の企業は特別待遇で操業を継続することになっていたし、協定を結ぶ前にいくつかの地域で樹立しておいた戦略的な地域でオランダの傀儡政権を通して影響力を維持できる目算があった。
但し、協定を締結してから1年も経たないうちに、その目算が狂う。オランダのたてた傀儡政権がそろいもそろってインドネシアに編成されることを希望し、インドネシアは連邦制ではなく共和国という一つの政府が代表する形で再スタートを切ることになる。
そこで紛争の種になったのが、1年以内にインドネシアに編入させる交渉を行うことになっていたオランダ領西ニューギニアの領有問題だ。未開発の石油や天然ガス、鉱物資源が豊富、勿論、戦争のために先延ばしになっていた金鉱脈エルドラード計画の実施も念頭に入れられていただろう。
一方、インドネシア側は、この未回収の領土に対する領有権を断固として要求した。国内の戦後復興はまだまだ手つかず、国家財政は赤字で火の車という状況にあっても、外交や軍事に力を注いで、西ニューギニアの領有権を取り戻すことを最優先とするのがスカルノ大統領だ。
”西ニューギニア問題を放置することは、植民地主義の存続を許すのと同じだ!” 先進国でない国々が主体となった世界初の国際会議、アジア・アフリカ会議が、1995年にインドネシアで開催されたとき、スカルノ大統領は、植民地主義を批判する流れから西ニューギニア領有権問題への支援を訴えた。
”アジアとアフリカは、東西の争いに利用されるのではなく、独自の価値観で未来を切り開くべきだ!人間の平和と尊厳を守るために団結しよう!参場者を兄弟と呼び、腕を振り上げ震わし、声を張り上げ、時には挑発的な強い言葉を意図的に用いる情熱的な演説。
民族も宗教も住む場所もバラバラなインドネシア国民を独立という言葉で奮い立たせ導いたスカルノ大統領の演説がこの会議によって、世界にも知れわたることになり、カリスマ性、情熱のリーダーとして注目されるようになった。
植民地主義に抵抗するため冷戦体制の西側にも東側にもつかない第三国という呼び名が生まれたこの会議は、後のアフリカ独立ラッシュにも影響を与えたという歴史的に重要な会議だったが、残念なことに、第2回及びそれ以降の開催は、スカルノ大統領の失脚をはじめとして、各国の状況の変化により本来の形で実現されることはなかった。
因みに、この会議の開催は4月、同年11月にベトナム戦争が開戦している。
スカルノ大統領の西ニューギニア返還を求める活動は演説だけではない。この会議の翌年、冷戦の親玉と批判していた米国のアイゼンハウアー大統領に申し入れ、初の訪米会談を実現させている。これは ”非同盟を掲げながらも、バランスをとって上手く大国と交渉し、頂くものは頂く” という外交の腕前を世界に見せつける機会になるはずだった。
目的は、経済援助と西ニューギニア問題でオランダに圧力をかけてもらうこと。ところが、アイゼンハウアー大統領の方は、スカルノ大統領を共産党主義寄りだと評価しており、この会談は成果を生まなかったどころか、かえって両国の関係をかえって悪化させる結果となった。
アイゼンハウアー大統領の在任中、スカルノ大統領は米国を二度訪れているが、欧米のマスコミ陣は、型破りなスカルノ大統領の行動をつぶさに面白おかしく記録、報道したので、その時の伝説的なエピソードが残っている。
政治的には歓迎されなかったスカルノ大統領だが、ハリウッドでは当時の大スターたちに囲まれ大歓迎を受けた。その際のマリリンモンローの胸元に視線がくぎ付けになっているスカルノ大統領の表情をとらえた写真は特に有名で、後日談によると、そのとき彼女にはスカルノ大統領をハニートラップにかける任務が課せられていたが、そのカリスマ性に心を奪われてしまったのはマリリンモンローの方だったという(噂)もある。
また、女性に弱いといっても、国の尊厳にかかわるようなことを言われると敏感に反応するのがスカルノ大統領らしいところ ”ある有名女優と談笑していた際、話の流れで彼女が’インドネシアへ行ってベチャ(三輪自転車のタクシー)に乗ってみたいわ”と言ったとたんに、激しい口調で応答した。
”あなたはベチャこぎという職業を良いものだとでも思っているのか、人間性を踏みにじる弱者に対する搾取だよ、搾取が首都ジャカルタの象徴だとは大変心外だ。搾取はあってはいけないんだ!” 唖然とする有名映画女優に、近くにいた仲間が ”君は大統領夫人になりそこねたな”と囁いたとか(噂)。
そして、アイゼンハワー大統領との会談ではどうだったのかというと、ホワイトハウスで約束の時間通りに待っていたのに、1時間以上も待たされ怒りだし”帰る”と言いだし、ゴネる大統領をホワイトハウス側が必至でとりなした。やっと現れたアイゼンハワー大統領は一言も謝りもせず、会談もぎくしゃくして何の実も結ばなかったという。
”全く通じるものがないことがすぐ分かった。植民地主義に苦しんでいるアジアの一国の話より、カウボーイ映画の話をしたがるようなヤツだよ’ Goto hell with your aid と言って支援を断ったこともあると後の自伝の中で語っている。
最初の訪米会談の3か月後、スカルノ大統領はソ連でフルシチョフ書記長と会談し大歓迎を受け、大規模な経済・軍事支援の約束、武器購入の支払い方法も長期の低金利払い+経済協力とのパッケージ契約といった満足のいくものだった。そして爆撃機52機、戦闘機86機、訓練機98機、ヘリコプターや潜水艦などが到着し、インドネシアも本格的な軍備を持つようになった。
それからスカルノ大統領は、インドネシア国内のオランダ資本主要企業をすべて接収し国有化するという強硬手段にでた。オランダ企業は、インドネシアの土地から資源を掘削し本国に持ち帰ってしまう。国の資源は国民のためにあるのではないか?これらの企業を国有化して、海外の支援に頼らなくてすむ独立した経済を目指そう!というものだった。
ところが、接収した企業の経営はうまくいかず、経済が大混乱に陥る。さらに中央政府に対する不信感や不満から、スマトラ島やスラウェシ島で地方の軍人や政治家を中心とした軍事的反乱が発生し、国内分裂の危機が訪れた。
スカルノ大統領は国軍を送ってその反乱を鎮圧させたが、その戦いの中で、米国製の武器や戦闘機、米国人パイロットが反乱に加わっていたことがわかり、裏には米国CIAの後ろだてがあったことにショックを受けたスカルノ大統領は、アメリカへの不信感・警戒心を強め、さらにソ連から武器を購入することになる。
この反乱軍の鎮圧は1960年ごろまで続いたが、その間、アメリカの鉱業会社フリーポートマクモラン社による、西ニューギニア金鉱脈の本格的な金鉱開発調査が行われている。キューバ革命の影響で、所有していた鉱山開発利権を失ったばかりのこの企業はニューヨークタイムスでこの鉱山のことが報道されると、すぐに活動をはじめオランダ政府から調査の許可を得た。
オランダが秘密保持しているはずの金鉱脈についての情報が何故、アメリカに渡ったのか?ニューヨークタイムスは何故突然このニュースを流したのか?アイゼンハワー、JFケネディ政権でCIA長官であった人物、アレン ダレス氏の、ロックフェラーのスタンダードオイル社や、第二次世界大戦前に西ニューギニアの金脈の調査を行ったオランダの鉱山企業の顧問弁護士を務めていたという経歴が鍵になる。
1955年のインドネシア選挙への関与、そして1958年の反乱軍への武器提供当時スカルノ大統領は要注意人物として常に監視されてたという。そして、フリーポート社は政府と密接な関係を持つ戦略資源供給企業であり、世界の資源価格に大きな影響力を持つ国際資本企業。
オランダは、鉱山利権でこの大企業を味方につければ、西ニューギニアの領有権交渉を有利に解決できると考えたのかもしれない。ところが、フリーポート社が調査を始めた2年後、西ニューギニアの領有権は、その米国の調停によって最終的にインドネシアのものとなる。
オランダが(パプア人の組織を利用して)西パプア国の独立を宣言させた1961年12月、スカルノ大統領は独立を阻止すべく軍事作戦を宣言、オランダも空軍・海軍を動員させ、いつ全面戦争に突入してもおかしくない緊張した状態が8か月も続いたが、その時調停を買って出たのがJFケネディ大統領だった。
インドネシアが共産圏になってしまうと、フィリピンやマレーシアも共産圏に取り込まれる可能性があることなどから、米国政府はアイゼンハワー大統領時代に悪化してしまったインドネシアとの関係を改善させ、戦争を回避しようとしていたという。
オランダはアメリカからの支援が得られなければ全面戦争を戦うことは難しいので、西ニューギニアを放棄するしかない。まさにこれこそスカルノ大統領の狙い通り、大国のどちら側にもつかず交渉によって、西ニューギニアの返還を達成したのだった。
”あの若い大統領は見所がある”1963年に訪米したスカルノ大統領はケネディ大統領と意気投合し、翌年にはケネディ大統領のインドネシア訪問が約束されていた。ところがその準備を進めていた最中に、ケネディ大統領がパレード中に銃殺される事件が発生する。
この事件によって、以前よりも益々、米国CIAを警戒するようになり、対抗する勢力共産党を重視するスカルノ大統領の態度に、懸念をもつ勢力と、スカルノ大統領を支持する勢力の間の対立が引き金となって、スカルノ大統領失脚の直接の原因となった1965年9月30日事件が発生した。
そして、この事件によって権力を掌握した軍人スハルトが、フリーポート社との契約書に署名したのは、まだ正式な大統領でもない臨時大統領に就任してからわずか一か月後のことだった” なんという円滑さだったろう。外資が必要で自力で交渉する余地がなかった”と説明されているけれど、やはり定められた通りの筋書きだったのか。
その契約の結果、超優遇条件によってフリーポート社がほとんどの利益を持ち帰る一方で、河川に流された廃棄物による環境汚染と土地を追い出された地元住民の貧困化がすさまじい。さらに常駐で警備にあたるインドネシア軍による地元住民に対する人権侵害、暴力行為、不法逮捕、これが現在も続くパプア紛争のはじまりだ。
スカルノ大統領は ”インドネシアの人材はまだ近代化に適応できていない。豊富な資源を外国資本に渡すのは、国の未来を売るのと同じだ”として、外資の導入には慎重だったと聞くと、あのような形で失脚してしまったことが大変惜しまれる。