2025-02-26

一夫多妻は合法なのか?スカルノ大統領の妻遍歴

最近、日本人の元夫人が政党を立ち上げたとかでよくその名前を見かける。ステイタスとか、お金持ちとか、大多数の人が受け入れやすい考え方なのかもしれないけれど、情報が少ないからといって資源が豊かで裕福な国のイケメン大統領であったかのように解説されるのには違和感を感じざるをえない。

スカルノ大統領は、独立運動の指導者としては偉大な功績を残したが、独立した後の国家元首としてどうだったかというと疑問符がつく大統領だ。経済は困窮、外交は孤立、汚職が蔓延が向けれられるも、反対する者を排除し、終身大統領を認めさせて権力を維持するなど、特に晩年の闇は深い。

宗教的には多妻婚が可能といっても、最高4人までという制限があり、さらに先に娶った妻から許可を得ること、全ての妻を平等に扱わなければならないという条件がある。現代の社会的認識からすると、全ての妻と平等に接することは無理であることを自覚し、1人の妻にとどまれという教訓なのだという解釈が的を得ているように思うが、経済的に可能なら4人までは合法という考え方がまだまだ根強い。

合法といってもそれは宗教上の結婚が許されるだけであって、戸籍上の妻はやはり1人しか登録できない。一般的にいって十分な経済力が必須であり、社会的立場のある人物であればなおさら、そのことで評判を落とさないようにしなければならない。

スカルノ大統領は、合計9人(独立運動家時代に3度、大統領在位中に6人)の妻を娶ったとして知られているが、国のリーダーとして模範となるべき大統領の多妻婚が、自動的に国民から祝福されていたわけでは決してなく、常に社会的、宗教的、道徳的、法律的な批判と困惑が伴っていた。

スカルノ大統領の最初の結婚は20歳の時、周囲が決めた恩師の娘との結婚で、相手はまだ十代半ばだった。大学生のスカルノが妻と一緒に住んでいた下宿屋のおかみさんが、二番目の妻となるインギット夫人。

結婚したばかりの幼い妻と上手くいかない悩みごとを聞いてもらっているうちに愛が芽生えたという。お互いが離婚手続きを済ませてからの結婚。13歳も歳上の妻と暮らしたこの期間、スカルノは活動家として頭角を現し、植民地政府に逮捕され離島で暮らした時にも献身的に彼を支えたことで知られている。

しかし、40歳を過ぎたスカルノは、生徒として夫婦の家の寄宿していた少女、支持者の娘ファトマワティにプロポーズ。20歳の歳の差、彼女をまるで娘のようにかわいがっていたインギット夫人にとっては、思いもよらない裏切りだった。

#Permintaan maaf fatmawati istri bung karno kepada inggit

スカルノがインギット夫人を、子供ができないという理由で離婚。独立運動の大切な時期であり、相手が若すぎることもあって不道徳だという批判と、インギット夫人への同情が世間の反応だった。独立宣言までのスカルノを描いた2013年の映画「Soekarno」も、そのような視点で描かれている。



但しそのような評判も、その後侵攻してきた日本軍の協力者、独立運動の指導者としてのスカルノの重要な活動の方が注目されたこと、またファトマワティ夫人は独立宣言で掲揚する国旗を縫製した国民的ヒロインとしてみられるようになったことで、スカルノが初代大統領に就任する頃にはすっかり過去のものとなっていた。

ところが、オランダとの戦争が終わり新政府が樹立されてから間もなく、ファトマワティ夫人が5人の子供を連れて大統領宮殿を去ることになる。原因となったのは、ハルティ二夫人。スカルノ大統領がジョグジャカルタで式典に出席した際、地元の婦人会によってふるまわれた昼食の伝統料理ロディが美味しかったとかで、大統領が誰が料理したのか尋ねたのが最初の出会いだったという。

#Hartini Isteri keempat 

スカルノ大統領の方は”公式の場には出さないから、彼女を第二夫人として宮殿の一つに住まわせたい” と約束し納得させようとしたが、ファトマワティ夫人は、断固として重婚を受け入れなかった。彼女の家族は、イスラム教の伝統的な悪習慣を改善し近代化を図ろうという宗派の熱心な活動家であり彼女自身も活動家であったことを考えれば、重婚を認めろという方が無理であったと思われる。

夫人はさらに”国民にとって悪い見本となる”ことについても懸念していた。独立戦争終了後、発足したばかりの新政府は、公務員の道徳基準を維持するために、重婚を禁じる法律を制定したばかりでもあった。

大統領は”あなたとの出会いは私の運命です”という熱烈なラブレターを何度も送って求婚した。ハルティ二夫人には離婚歴があり、前夫の間に子供が5人いた。そうではあっても、ジャワの裕福で由緒正しい家柄の出身であり、第二夫人になるだなんてとんでもないと家族からは猛反対を受けた。

乳飲み子を抱えて出て行ったファトマワティ夫人は二度と夫の元に戻ることはなかった。しかし、大統領は別居後もファトマワティ夫人との間の戸籍上の離婚手続きを行わず、ファトマワティ夫人の大統領夫人としての地位は、スカルノ大統領失脚の時点まで変わることがなかった。

#Kisah sukarno ditinggal fatmawati

第二夫人、大統領夫人の代役として公の場に登場するようになったハルティ二夫人だが、国民からはパッシングを受け、最も国民から人気のない大統領夫人だと評価された。それでも肝の据わったひとであったらしく夫が次々とあたらしい妻を迎えたからといって、去ることもなく、後にスカルノ大統領が失脚し、病院で孤独な最期を迎えたときも最後まで寄り添い看取ったたった一人の妻でもある。

スカルノ大統領から離れていったのはファトマワティ夫人だけではない。1956年、独立運動の時からずっとコンビだった副大統領のハッタ副大統領も、大統領との意見の相違からついに副大統領を辞任し政界を去った。論理的で現実的、スカルノ大統領とは互いの欠点を補い合う関係だったが、議会民主主義を維持するか大統領の権限を強化するかで意見が分かれたという。

1955年に行われた初の民主主義選挙により選出された国会は、政党間の対立が激しく何度も閣僚の入替えが発生するなど大変混乱した状況にあった。スカルノ大統領は、「西洋的な民主主義は機能しない」と主張し、ハッタ副大統領は独立の理念である議会制民主主義の維持と地方分権を主張した。

#Hatta meninggalkan soekarno

ハッタ副大統領が去った後1957年、スカルノ大統領は、指導民主制を提唱し大統領の権限を強化、同年末、西ニューギニア領有問題で対立していた旧宗主国オランダ資本の銀行、石油、海運、農園企業に、軍隊を送って占拠、国有企業として接収する。

天然資源(石油、ゴム)の世界的需要は好調であったが、接収後、インドネシア政府主導の企業経営は能力不足で大混乱、利益が出ない一方で汚職が蔓延し、資本撤退、対外関係も悪化。オランダは米国にも協力を要請し西側諸国からの経済制裁を受けることになる。

財政赤字を埋め合わせるため、政府は紙幣を大量増刷してインフレが加速、地方の経済も大混乱の中、農園・鉱業・石油産業のオランダ企業の拠点であったスマトラ島、スラウェシ島では、地方軍・政治家が反乱を起こした。政府が接収した企業の経営が中央の官僚や軍人に任されて、地元には何も還元されないという不満によるものだった。

スカルノ大統領は国軍を派遣し何年かかかってこの反乱を鎮圧した。その際、追撃された爆撃機などから、この反乱に米国が関与しCIAからの資金・武器提供、傭兵派遣があったことも発覚した。これによって、スカルノ大統領は西側諸国への不信感を深め、またこの反乱鎮圧によって影響力を増した国軍に対抗するために、ソ連・中国側からの武器提供や資金援助を積極的に受けるようになった。(これが後に失脚の原因につながる)

実はこの混乱の最中に、大統領は5人目の妻、カルティニ夫人と交際していた。夫人との出会いは、大統領が展覧会で見かけた肖像画が大変印象深かったとのことで、モデルになった女性がガルーダ航空のスチュワーデスであると知ると、大統領が出張の度にアテンドに着くことが彼女の任務になったという。

Kartini manoppo Isteri kelima

彼女もまた由緒正しい家柄の出身で家族から猛反対を受けていた。出身地は反乱がおこっていた北スラェシである。1959年に非公式の結婚、1967年ドイツで男児を出産した。それは国の情勢が不安定だからという理由からだったそうだが、夫人はその後も長く海外で生活した後、帰国したとも離婚したとも言われているがはっきりとした情報はない。

1959年はスカルノ大統領が一党独裁的な体制に移行する大統領令を発行し、議会制民主主義を終わらせた年でもある。中国、ソ連、日本からの経済支援を受けるが経済効果を生まず、物価高騰、物資不足、失業増加、でインフレ率は1000%にも達した。

スカルノ大統領が6人目の妻、19歳のデウィ夫人を娶ったのはそのような状況下だった。当時の学生デモは、大統領は国民のことを全く気にかけていないと猛烈に批判した。夫人の贅沢な暮らしぶり自慢は、困窮の只中にある国民の感情を逆なでし、スカルノ大統領に対する不満の声を更に高めるものだった。

デヴィ夫人と大統領の結婚は1962年、しかしそれ以前にスカルノ大統領には、もう一人の日本人妻がいた。1958年に京都で出会い翌年1959年に、大統領が再び来日した際に結婚、イスラム教徒になり改名もして南ジャカルタの高級住宅街に邸宅を与えられ暮らしていたが、わずか何カ月後、浴室で手首を切り自ら命を絶ち現地で葬られたという。

このことついては、日本語版ウィキペディアに書かれている(金勢さき子さん)

命を絶った理由は、デヴィ夫人への嫉妬であったということなので、結婚してジャカルタに住み始めて間もなく、大統領が別の日本人と交際を始めたことを知って命を絶つことを決めたようだ。彼女の名前は9人の妻の中には入れられておらず、”忘れられた日本人妻”として紹介されることが多い。

Sakiko kanase istri yang dilupakan

大統領は1960年に国会を解散、新たな体制下で共産党が大統領の支持を得て勢力が拡大、マレーシアの独立問題をめぐって西側諸国との関係が完全に悪化する一方で中国共産党と接近していく。このような左傾化が国軍と共産党勢力の関係を緊迫化させる。

1965年にはインフレ率600%ににも達し、その年の9月30日、スハルト陸軍少将(後の二代目大統領)が権力を掌握するきっかけとなる軍事クーデター未遂事件が発生し、スカルノ大統領は徐々に権力を失い1967年に失脚する。

そのような中で、1963年に7人目(23歳の大統領府芸術分野の職員)、1964年に8人目(学生代表として、式典で使用するものをお盆に載せて大統領に渡した高校生)1966年に9人目(大統領宮殿での式典に参加するために選ばれた雑誌の表紙にも載ったことのある賢くて美人な19歳)といったように立て続けに新しい妻を娶っている。

いったいそのように沢山の妻を娶ることにどのような意味があったのかは分からない。現在となっては、武勇伝として語り伝えられるばかりだ。デヴィ夫人についてビジネス的な後援者が背後にいたということはよく語られることだが、他の夫人についても同じようなことがなかったともいえない。

国民として戸籍上登録が認められているのが1人であるならば、宗教婚で4人までオッケーだなんていわずに’愛人’と訳せばよいのにと思いながらも、それも微妙だなと思うのでそのまま妻で統一した。

スカルノ大統領の失脚後、二代目大統領に就任したスハルトはスカルノ一族を大変冷遇したので、元妻たちは(1人を除いて)その後一般人として質素に目立たぬように暮らしたという。

そうではあっても、独立運動時代のスカルノ大統領が提唱した国家理念は、独立運動、独立戦争を通じて国民を鼓舞し、団結を促した重要な要素であり、そして現在までも精神的な支柱になっているということは疑いようがない。

大統領の独立運動家時代の話も過去に書いているので、あわせてお読みいただければと思う。

国民的英雄スカルノ大統領はここから始まった

日本軍統治下で売国奴と呼ばれたスカルノ大統領

トップシークレットだった日本軍の敗戦 独立宣言前夜とスカルノ大統領夫人

G30 から1998年スハルト政権退陣後まで