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2024年大統領選挙序章 大統領の息子が副大統領候補になった経緯

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 それまで通える距離に公立高校が存在しなかったために進学をあきらめるしかなかった山合いの集落に、ガラス張りのロビーにレンガ張りの外壁という公立高校にしては珍しいおしゃれな雰囲気の公舎が出来上がった。”同じ予算を使っても汚職がなければ、私立学校にも負けないくらい立派な校舎を建てることが出来るということを証明したい”という知事の意気込みによるものだった。 完成まじかの現場を訪れ、すでに仕上げの塗装がなされているガラスの下側の壁を一見、迷いもなく蹴りつけると簡単に穴が開いてしまう。他にも屋上のコンクリートのひび割れや手すりのサビ、タイルの隙間やコーティング剤が塗られていないことを確認すると、ポケットから携帯を取り出し”最初に約束したのと違う。やり直して。それとも裁判に持ち込もうか”と、その場で決着をつける。 これは、大統領候補の一人ガンジャル氏の中部ジャワ州の知事時代の仕事風景。地方のリーダーとして実績が評価された人物というときは、知事といえども現場に行ってこれをやってくれる人のことをいう。(先進国ではそんなことはあり得ないかもしれないけれど)隙あらば材料の質を下げたり手抜き工事をしようとする業者ばかりなので、いくら尊いコンセプトを綴ってはじめたプロジェクトでも、作業を担当職員に全て任せていたのでは、赤恥をかくことになる。 選挙戦に先立って任期を満了したガンジャル氏、現在は大統領候補者として毎日のように全国各地を巡っている。庶民性をアピールするために市場や下町を訪問するキャンペーンは、他の候補者もやっているが、普通は撮影が終われば切り上げるのに対して、ガンジャル氏の場合は地元の庶民の家に寝泊まりし、夜は村の小さな集会所の薄暗い蛍光灯の下で、昼は広場に広げたむしろの上で車座になって、地元の人たちと一緒にお弁当をたべる。 ジャワ弁特有の優しくゆったりと和やかな口調で語りかけ、打ち解けたところで、質問を募り、打ち明け話を糸口にして政策の紹介へとつなげるスムーズな進行は、プロの司会者も顔負けする。票をとるという目的なら効率があまりよくなさそうだが、これまで地元でやってきたことを、本気で全国に広げてやっていこうという誠実さをアピールする効果は抜群だ。 通常でも、家の近所で奥さんと一緒にジョギングしている姿を見物に来る人で人だかりができるくらい人気がある。闘争民主党の一党員か...

G30 から1998年スハルト政権退陣後まで 

 マイクで票を読み上げる人の声は、周囲から水を飲んだ方がいい、と言われるほど緊張していた。箱の中の紙を一枚ずつ開いて手渡す専門の係の人と、正の字をマーカーで書き入れる人。1999年、Windowsの2000年問題がまさに迫っていた頃だったので、この国ではあまり影響はなさそうだなどと思いながら観ていたのを覚えている。 ベトナム戦争や文化革命、日本でも学生運動運動が盛んになった1960年代後半、インドネシアでも左派系軍人のクーデター未遂事件(G30事件)があった。陸軍最高指導部の将校数人が深夜自宅で襲撃を受け、井戸の中に放り込まれたというショックな事件だった。事件そのものは不可解なところが多いので詳細は省くが、いなくなった上司の代わりに緊急事態の指揮をとって手際よく事件を鎮圧したのがスハルト。 事態収拾の権限を利用し、共産党を非合法化して解散させ、G30 事件に関わったとみなされる大臣15人と国会議員を拘束、入れ替えを行い、国会が大統領任命する法律(スカルノ大統領が長期政権を維持するために停止されていた)を復活させ、その承認をもって第二代目大統領の座に就くと、その後、32年間その座を誰にも譲らなかった。 テレビや新聞は、左派軍人が、如何に卑怯で残忍に、将校らを殺害したかの解説、射殺された将校の功績をたたえるニュースを繰り返していた。独立戦争の英雄だった将軍が射殺されたというショック、やっぱりあいつらヤバかったんだという恐怖心と扇動によるものなのか。民衆の間では、共産党狩り(共産党員又は共産党と関わりがあったと噂があるだけでリンチ・殺害される)が始まる。 スハルト政府は当然、これを放置し、”裁き”執行する村人は、何処から手に入れたのか共産党員とその関係者のリストも握っていた。犠牲者は50万人以上、又は百万人単位といわれ、それが将校殺害事件の後たった1年間の数字だというのが信じがたい。それも民間人同士が自発的に…遺体は道端や川、水路に投げ捨てられ、遺体の血で川の水が真っ赤に染まったという。#Pembunuhan Massal はじまりからして血と策略まみれのスハルト政権だったが、暗黒の時代はまだまだ続く。70年代中頃、田中首相がインドネシアを訪問したタイミングで、大規模な学生デモが起った。”今、外資が投下されれば大統領一族の私服が肥えるだけ。抑圧が強くなるからやめて...

パレスチナ問題についてイスラム教圏ではこう伝えられている

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 中東情勢パレスチナ問題が緊迫する度に出てくるのが、旧約聖書や古代歴史の解説。結構頑張って読んだのに、結局のところやっぱり宗教の問題だから難しい、という結論でなんだかもやもやしたことはないだろうか。 イスラム教圏側からだったら、どう伝えられているか?以外にもそれは、聖典の引用などではなく、とてもシンプルでわかりやすいものだった。中東問題を語るときの基本、それはオスマン帝国が支配していた何百年間もの間、”ユダヤ教徒とアラブ人は、争うことなく共存していた”ということだ。 ”トルコは何不自由のないところだ。ここでは自分のぶどうの木を持つことができる。明るい色の服を着ていても殴られたりしない。キリスト教徒の下で暮らすよりずっといい。” これは、宗教戦争のヨーロッパから聖地エルサレムに移住してきたユダヤ教のラビが、ドイツの同胞に宛てた手紙(Letter of Rabbi Isaac Zarfati)。 このラビの手紙に励まされて、その後何世紀にも渡って、ユダヤ人やキリスト教徒が、聖地エルサレムの近辺に移り住んできたが、イスラム教徒から阻まれるようなこともなく、アラブ人とユダヤ人、キリスト教徒は共存していた。”他宗教を迫害しない寛容性”こそが本来のイスラムの教えだと説明される。 ”しかし、シオニストは共存を拒否した”ということの意味はどういうことだろう。何万人もの移民が一度に押し寄せれば様々な問題が発生することは、現代の私たちにも身近な話題だが、やはり同じような問題が発生していたのだろうか?カタールのテレビ局アルジーラが製作したドキュメンタリーがそれを解説している。 シオニズム運動を支持するイギリスの軍隊がパレスチナを支配すると、元々パレスチナに住んでいた人々は厳しく取締られた。反対活動を行えば、投獄、追放、殺害、パレスチナ地域の指導者であったイスラエル市長なども、国外に追放されてしまった。結果、パレスチナは指導者を失った。 どんどん送り込まれる移民、イギリスは制限をかけたが守られなかった。移民してきた若者には特別訓練が施され、シオニストの軍隊ができた。これがまたアグレッシブな部隊で、イギリス軍と度々衝突したり、また、パレスチナ人の村々をスパイし調査したうえで、爆弾を仕掛け村民を殺害したり追い出したり、建国前から領域を拡大する作戦を展開していた。イスラエル建国が宣言され...

トップシークレットだった日本軍の敗戦 独立宣言前夜とスカルノ大統領夫人

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 20歳の年の差、先生と生徒の関係から結婚へ。後に若干22歳でファーストレディとなるファトマワティ夫人との出会いは、流刑先のスマトラ島西海岸のベンクル。将来の国の指導者になる人物から直々に教育を受けさせたいと、教育や学校設立を通してイスラム近代化を図る団体の活動家であった両親によって、寄宿生として預けられたのは15歳の時だった。 流刑中ずっと連れ添ってきたインギット夫人は、13歳年上で、学生時代の寄宿先のおかみさんだった人。前夫との間の子を連れていたが、夫スカルノとの間に子供はなく、寄宿生として預かることになったファトマワティを実の娘のように可愛がっていた。まさか、その親子ほども歳の離れた娘に愛を告白したのはスカルノ氏の方だったとは… ”多妻婚は受け入れられない”と、インギット夫人は自ら去っていく。(およそ15年後にファトマワティ夫人も同じ理由で夫スカルノから離れることになるのだが…) 折しも、スカルノ氏は、日本軍によって流刑から解放され、日本軍の協力者としてジャカルタでに行く。 彼女が20歳になるのを待ち、正式な妻としてジャカルタに呼び寄せ新婚生活をおくったのが東ペガンサアン通56番地(#rumah pegangsaan Timur No.56)の家。ここで第一子を妊娠中の夫人が、独立を迎える日に掲げる国旗をミシンで縫って準備していたという話は大変有名だ。それは、単に献身的な妻の鏡としての行動というよりも、民族主義、近代的な思想を持つ若者の一人として、彼女自身が祖国の独立に貢献したいという気持ちを持っていたということの表れであったというほうが適切だ。 ”青年の誓い”に参加した世代の青年たちは、スカルノ氏らが逮捕され流刑地に送られてしまった後、各自、地元で学校の設立にかかわったり教師として働くことで、独立運動を担う若い世代を育成する草の根的な活動を続けていた。自由、平等、民主主義、ヨーロッパ最先端の思想。 ファトマワティ夫人と同じ頃に学生だった世代は、その影響を大いに受けた世代だが、日の丸崇拝や日本語の使用が強要されたり、飢えと向き合い、兵補や労務者として無駄死させられることになるかわからない日々を過ごすにつけ、祖国の独立を達成させたい想いはますます強くなっていたことだろう。 インドネシア人だけの郷土防衛義勇軍に志願したのもこのような若者たちだった。日本軍か...

日本軍統治下で売国奴と呼ばれたスカルノ大統領

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 スエズ運河が開通してから、ヨーロッパからアジアへの船旅はより身近なものとなっていたようだ。オランダ語らしい船名のついた大型船から続々と降りてくるたくさんの西欧人たち。男性は帽子に白いスーツ、奥様方は、ワンピースに白手袋をつけた奥様方たち、といった正装で、お互いのビジネスの話などを交わし談笑している。植民地政府に赴任になった公務員や、輸出業者、農場や鉱山の経営か。すでに社交界の雰囲気だ。 船を降りたオランダ人は、オランダ人専用の邸宅街でオランダ人だけのコミュニティーで暮らす。子供にはオランダ語の学校、大人たちには社交クラブがあり、テニス、ゴルフ、遊戯施設やプールも完備されている。邸宅内の中庭で、お誕生会をしている子供たちの映像が可愛い。女の子は、ふわふわのワンピースに大きなリボン、男の子は半ズボンにサスペンダーといった服装。その頃のオランダ人の子供たちがとても大切に育てられていたのが伺われる。 POTRET KEHIDUPAN ORANG BELANDA DI INDONESIA YANG PENUH KEBAHAGIAAN DAN CANDA TAWA TAHUN 1930 -1940an #guruinteraktif #sejarah #penjajahanbelanda #hindiabelanda #sejarahindonesia #orangbelanda #orangeropa Video ini memperlihatkan kondisi riil kehidupan orang ... youtu.be そんなオランダ人たちのインドネシアでの生活を180度変えてしまったのが、日本軍による占領だ。植民地政府高官と軍の一部は、事前にオーストラリアに亡命していたが、大部分の民間人は残っていた。オランダ軍が撤退したことで、白人とみれば現地人から襲撃を受ける事件も発生しており、全ての西洋人はキャンプに収容されることになる。(オランダ人以外の西洋人もいたが、ドイツとイタリア国籍者は同盟国であるということからキャンプには入れられなかった) アジア人優先の方針により、日本軍は行政及び民間のオランダ人管理職者を全て排除し、現地人を昇格させて配下に置いた。そして、オランダ人の成人男性は全て強制労働員(ロームシャ)として、男性専用のキャンプに集められ、その妻...

国民的英雄スカルノ大統領はここから始まった

 日本の終戦記念日の2日後が、インドネシアの独立記念日。広域に散在する島々を領土とし、様々な言語や歴史的背景を持つ人々(それぞれの民族がそれぞれの天皇を持っていると考えるとわかりやすい)が、一つの国を目指して団結し独立を勝ち取るまでの流れを辿ってみる。領土や民族、考え方の違いのために、繰り返される紛争や戦争が世界中にどれだけ沢山あるかを考えるとき、また、言論統制が強まる動きに息苦しさを感じる現代だからこそ、共有できるものがあるように思う。 建国の父スカルノ初代大統領が、民族主義活動に身を投じることになったエピソードの一つに、高校時代、同級生のオランダ人の女の子の家に結婚を申し込みに行ったら、彼女の父親から散々に貶められて罵詈雑言を浴びせられたことで、人種差別を実感した、というエピソードがある。20世紀初めのオランダ植民地政府は、倫理政策の一環として、現地人向けには職業訓練学校を作り、また現地人官吏の子弟男子限定でオランダ人の子弟のための学校に通うこと許可したり、オランダに留学する機会を与えたりという試みがあった。 植民地政府主導による強制栽培政策で、商品用作物ばかり植えさせられた結果、現地人が大量に餓死したという時代はすでに過去のこと、強制栽培政策で得た莫大な富によってオランダ本土では産業革命が完成していた。そのことは植民地においても変化をもたらす。 資本主義に基づいた農園業や炭鉱業などでひともうけしようとするオランダ人が大量に流入してくる一方で、現地人は貨幣経済の犠牲者へと堕ちていく。理不尽な借金のかたとなって、安価な労働者として劣悪な環境下での強制労働や無給労働、一方的な懲罰と差別、子女の誘拐や暴行。 政治には一切参加させてもらえない無力な現地人が、そういった問題について意見を言ったり抗議したりする団体を結成することは、倫理政策の下でも許されてはいなかった。そこで、イスラム教徒の商業団体や、医師らによる奨学金援助活動団体といった資本主義なら禁じようのないコミュニティーの結成が認められると、会員が爆増した。本来の実務的な情報交換だけにとどまらず、訴える場のない社会的な問題を議論する場としても発展していく。 何百万人もの会員が集まり影響力を持ち始めると、植民地政府からの干渉が入り、政府に従おうとする側と、反発する側に分かれて分裂。ついに後者(共産党系)が武装...

ゴルゴ13に描かれたスシ海洋漁業大臣 ‐任期中に襲った悲劇とその後

 黒いサングラスにベレー帽、白ヒョウ柄のブラウス、違法漁船爆破の陣頭指揮をとる女性大臣。右足脛の入れ墨、ヘビースモーカー、しゃがれた声と豪快な人柄、威勢のよいところがカッコいい。ゴルゴ13のエピソードの一つに描かれたキャラクターのモデルといわれたことのあるスシ海洋水産大臣。 なんでも、メガワティ氏(ジョコウィ氏の所属政党の党首)とのお友達として、大統領になる前のジョコウィ氏と対面した時に、スシ氏が語った”これからの海洋水産行政に関する自論”について、同氏が関心を持ち、2014年に初当選を果たした時の第一次政権で、大抜擢に至ったという。 女性実業家として成功への道のりもユニークだ。高校中退後、故郷の港町で魚の行商からスタートして13年後、輸出用ロブスターの加工工場を設立、大都市の旺盛な需要にこたえて海産品を産地から直送するために、銀行からの借り入で購入したセスナ機一機から空輸業界へと進出、アチェの津波災害時での慈善活動をきっかけに、国内遠隔離島地域に定期便・チャーター便を提供する航空会社へと成長させた。 漁業という粗っぽい業界で培った知識と自信、業界を知りつくしビジネスの成功に裏付けられた大胆で合理的で柔軟な発想と決断力、学者や議員出身の指導者ではこうはいかない。 ”わざわざ爆破しなくても転売すればいいじゃないか”というという政界大御所からのご意見にも決して動じなかった。拿捕した船を放置すれば、安く売買いされて再びすぐにも密漁に使用される。うわべだけの鼬ごっこを避けるためだ。 他にも、ロブスターの稚魚輸出禁止、環境を破壊する漁具の禁止、の大臣令を次々と発令。小規模漁業、海洋資源の保護に対する画期的な活動が認められて世界自然保護基金(WWF)から'Leaders for a Living Planet Awards'を受賞している。 これだけの人気と実績なのだから、2019年にジョコウィ大統領二期目続投が決まった時は、スシ氏も大臣を続投するものと期待されて当然だが、実はそれが叶わなかった。それならせめて彼女の方針を引き継いでくれる人物を後任にと思うがそれも裏切られる。 後任のE氏は議員出身で漁業とはかかわりのない人物。”よいものは継続し、よくないものは改善していく”という就任当初のコメントから嫌な予感がしたものだが、果たしてその通り、密漁船の取締りや爆破...