マイクで票を読み上げる人の声は、周囲から水を飲んだ方がいい、と言われるほど緊張していた。箱の中の紙を一枚ずつ開いて手渡す専門の係の人と、正の字をマーカーで書き入れる人。1999年、Windowsの2000年問題がまさに迫っていた頃だったので、この国ではあまり影響はなさそうだなどと思いながら観ていたのを覚えている。
ベトナム戦争や文化革命、日本でも学生運動運動が盛んになった1960年代後半、インドネシアでも左派系軍人のクーデター未遂事件(G30事件)があった。陸軍最高指導部の将校数人が深夜自宅で襲撃を受け、井戸の中に放り込まれたというショックな事件だった。事件そのものは不可解なところが多いので詳細は省くが、いなくなった上司の代わりに緊急事態の指揮をとって手際よく事件を鎮圧したのがスハルト。
事態収拾の権限を利用し、共産党を非合法化して解散させ、G30 事件に関わったとみなされる大臣15人と国会議員を拘束、入れ替えを行い、国会が大統領任命する法律(スカルノ大統領が長期政権を維持するために停止されていた)を復活させ、その承認をもって第二代目大統領の座に就くと、その後、32年間その座を誰にも譲らなかった。
テレビや新聞は、左派軍人が、如何に卑怯で残忍に、将校らを殺害したかの解説、射殺された将校の功績をたたえるニュースを繰り返していた。独立戦争の英雄だった将軍が射殺されたというショック、やっぱりあいつらヤバかったんだという恐怖心と扇動によるものなのか。民衆の間では、共産党狩り(共産党員又は共産党と関わりがあったと噂があるだけでリンチ・殺害される)が始まる。
スハルト政府は当然、これを放置し、”裁き”執行する村人は、何処から手に入れたのか共産党員とその関係者のリストも握っていた。犠牲者は50万人以上、又は百万人単位といわれ、それが将校殺害事件の後たった1年間の数字だというのが信じがたい。それも民間人同士が自発的に…遺体は道端や川、水路に投げ捨てられ、遺体の血で川の水が真っ赤に染まったという。#Pembunuhan Massal
はじまりからして血と策略まみれのスハルト政権だったが、暗黒の時代はまだまだ続く。70年代中頃、田中首相がインドネシアを訪問したタイミングで、大規模な学生デモが起った。”今、外資が投下されれば大統領一族の私服が肥えるだけ。抑圧が強くなるからやめてくれ”というメッセージを伝える、汚職反対を訴える平和的なデモだったが、一部のデモ参加者が車を焼いたり建物を破壊しはじめたことからカオスに転じた。
日本車を中心に800台の車が焼かれ、140もの建物が破壊され、国軍(警察は国軍の配下にあった)によって鎮圧された。死者11人、けが人300人、そして逮捕者750人という数字がその異常さを示している。#Malari1974
この事件の後、逮捕された学生を擁護するような記事を書いた新聞社12社が、許可をはく奪され、大学校内には治安局が設置された。政治はというと、大統領の家族とそのとりまきのビジネスサポート機関になり下がっていた。国会議員選挙は従来通り、政権の合法性を維持するために5年に一度行われていたが、与党のG党が必ず勝つことになっていた。
伝統的に強い影響力を持つイスラム教組織には、設備や施設、儀式などに資金を拠出して形式的なことで満足させる世俗化政策をとった。ハラール認証の特権が与えられたのもこの頃だ。しかし全てが制御下に収まっていたわけでもなく、下町の説教師が礼拝所に、政府の政策を批判するポスターを傲慢な態度で剥しに来た警官と地元民との間の紛争に発して、千人規模のデモと暴動にまで至った。そのときの400人~700人もの住民が行方不明になったままだという。
#Tragedi Tanjung Priok
また、選挙でより確実に勝つためにスハルト政権は、国会議員選挙(この頃はまだ地方行政の長は任命制だった)に参加できる野党を、イスラム系PPP党と民主派系PDI党の二つだけに統合した。野党は内輪の主導権争いが続き、長い間、国民の不満の声を代弁することができる存在にはなりえなかった。
新しい動きはスハルト政権の中盤80年代後半から始まる。着のみ着のままで宮殿を追い出されたあと、政権による厳重な監視下におかれ不遇のまま最後を遂げたスカルノ元大統領の長女、メガワティ氏が野党の一つPDI党に入党し、初出馬で国会議員に当選した。
既存の議員や政府にとっては、およびでない立場にあることは承知の上であったものの、彼女自身、残念ながらあまり弁のたつ人でもなく、期待されたような活躍もなく、また二期目の選挙で落選した。しかし反スハルト運動のシンボルとして、PDI党の党大会がメガワティを党首に指名したことは、反スハルト民主化運動を力づけた。
ところがその後になって、旧党首派が別の党大会を開催してメガワティ氏の党首就任は無効であると主張し、党が二つに分裂してしまう。メガワティ氏が退けられるのを連日、PDI党本部の建物の前で見張りをしていたメガワティ派の若者たちが、建物をのっとろうとする旧党首派の連れてきたゴロツキ風の男たちと衝突するという事件が起こった。
またしても軍が介入し、136名が逮捕、死者5名、行方不明23名、ゴロツキ風の男たちは逮捕されなかった。(後の調査で、PDI党の支援者を装った国軍の一部隊がいたことが確認されている)この事件の後、ジャカルタのいくつかの箇所で、建物を壊したり車両を焼いたりする事件が続いた。1996年7月27日事件#Kuda tuli
”毎日、毎日、デモだった。俺たちが世の中を変えるんだと思うとご飯食べるのも忘れるくらいだった””仲間が逮捕されたり、撃たれたりされればそれだけもっと人が集まるんだ” 元学生は当時を振り返る。その頃、彼らは普及し始めた携帯電話や携帯メッセージで連絡をとりあって、より広い領域から応援を集めることが出来るようになっていた。
政府は、武力で制圧すればするほどデモが拡大していくことにジレンマを感じ始めた。そんな中、97年に行われた選挙で、不自然な形で与党G党が圧勝し、その国会がスハルト大統領続投を承認したのが5月末。タイを中心としたアジア通貨危機が発生したのが同年7月。燃料高騰の影響が全国的な暴動に発展しスハルト大統領が辞任に追い込まれたのが98年5月という流れになる。
”深夜、学生寮に体格のよい覆面の男たちが入ってきて、名前を確認すると目隠しをして車で連れて行かれ拷問を受けた” ”逆さ釣りにされて息ができないほど何度も電気ショックを与えられた””氷の上に裸で寝させられた屈辱が忘れられない” ”自分自身が拷問を受けているときよりも、聞こえてくる仲間の叫び声が何よりもつらかった”
98年活動家と呼ばれる彼らは、現在40代後半~50代、そのときの記憶は薄れようがない。あの頃、デモの拡大を抑えるために、学生デモの活動家幹部を拉致して拷問を与えるという極秘任務を遂行していたのが陸軍特殊任務司令部(コパスス)の配下にある”薔薇部隊”。拉致された23人の内、何とか帰還することができたのは9名、1名が死亡、13名が未だに行方不明のままである。
1999年、あのときの国会中継は、スハルト大統領が辞任した後、副大統領だったハビビ氏が3代目大統領を務めていたが、新たな選挙の結果に従って第4代目大統領を決めるための投票の様子だった。その時、PDI党(インドネシア民主党)はPDI-P 闘争民主党と改名していたが、(Pがついた意味は、独立運動の戦士を示し、弱者のために権力と闘う者という意味、闘争を表す)選挙の結果では、第一党となっていた。
しかし、議員投票の結果で、大統領に指名されたのはメガワティ氏ではなく、イスラム教寛容派のワヒド氏だった。その後、ワヒド大統領が国会から罷免されて(ワヒド氏も着のみ着のままで終われるように宮殿を去る)副大統領だったメガワティ氏が大統領に昇格する。しかし、メガワティ政権で要職に就いたのは、スハルト政権で与党だったG党の幹部や、スハルト政権下での人権侵害行為に関わったとされる元軍人など。
その次の2004年の大統領選挙からは、国民の直接投票が始まったが、メガワティ元大統領は2004年と2009年の2回挑戦して2度敗退している。独裁政権と闘ったころからのメガワティ支持者を失望させたには、2009年の選挙でスハルト元大統領の娘婿(1983‐98年)プラボゥオ氏と組んだことだ。彼は人権侵害行為の責任を取って軍を除隊させられたコパススの司令官であり薔薇部隊は彼の配下にあった。
同氏の名前は、大統領選挙の度に候補者として名前が出てくる。そして来る2024年もまた、大統領選に出馬する。毎回選挙キャンペーン中には、生中継の公開討論会というのがあって、必ず拉致被害者に対する人権問題がテーマの一つになる。
プラボゥオ氏支持者側の意見では、軍籍をはく奪されたことでもう償っているという人もいるし直接かかわっていないという人もいる。
今でも行方不明の仲間がどうなったのか。98年元活動家や、被害者の家族たちは、毎週木曜日に大統領宮殿の前で、真相解明を求める集会を20年もずっと続けている。
道路わきには、これでもかというほど大型看板が飾られ、彼の言動や行動が毎日のように報道される。被害者、遺族の方々にはどんなにつらいことだろう。
10年間権力の座に居り、被害者の家族と直接会って約束した庶民出身の民主的だといわれた大統領ジョコウィドド大統領も、この問題についてとうとう手をつけることはなかった。
2024年の大統領選挙のことをついてこれから書こうとしているが、この辺の背景を先に書く必要があると思った