2023-10-09

トップシークレットだった日本軍の敗戦 独立宣言前夜とスカルノ大統領夫人

 20歳の年の差、先生と生徒の関係から結婚へ。後に若干22歳でファーストレディとなるファトマワティ夫人との出会いは、流刑先のスマトラ島西海岸のベンクル。将来の国の指導者になる人物から直々に教育を受けさせたいと、教育や学校設立を通してイスラム近代化を図る団体の活動家であった両親によって、寄宿生として預けられたのは15歳の時だった。


流刑中ずっと連れ添ってきたインギット夫人は、13歳年上で、学生時代の寄宿先のおかみさんだった人。前夫との間の子を連れていたが、夫スカルノとの間に子供はなく、寄宿生として預かることになったファトマワティを実の娘のように可愛がっていた。まさか、その親子ほども歳の離れた娘に愛を告白したのはスカルノ氏の方だったとは…


”多妻婚は受け入れられない”と、インギット夫人は自ら去っていく。(およそ15年後にファトマワティ夫人も同じ理由で夫スカルノから離れることになるのだが…) 折しも、スカルノ氏は、日本軍によって流刑から解放され、日本軍の協力者としてジャカルタでに行く。


彼女が20歳になるのを待ち、正式な妻としてジャカルタに呼び寄せ新婚生活をおくったのが東ペガンサアン通56番地(#rumah pegangsaan Timur No.56)の家。ここで第一子を妊娠中の夫人が、独立を迎える日に掲げる国旗をミシンで縫って準備していたという話は大変有名だ。それは、単に献身的な妻の鏡としての行動というよりも、民族主義、近代的な思想を持つ若者の一人として、彼女自身が祖国の独立に貢献したいという気持ちを持っていたということの表れであったというほうが適切だ。


”青年の誓い”に参加した世代の青年たちは、スカルノ氏らが逮捕され流刑地に送られてしまった後、各自、地元で学校の設立にかかわったり教師として働くことで、独立運動を担う若い世代を育成する草の根的な活動を続けていた。自由、平等、民主主義、ヨーロッパ最先端の思想。


ファトマワティ夫人と同じ頃に学生だった世代は、その影響を大いに受けた世代だが、日の丸崇拝や日本語の使用が強要されたり、飢えと向き合い、兵補や労務者として無駄死させられることになるかわからない日々を過ごすにつけ、祖国の独立を達成させたい想いはますます強くなっていたことだろう。


インドネシア人だけの郷土防衛義勇軍に志願したのもこのような若者たちだった。日本軍から直々に訓練を受けたメンバーがそれぞれの故郷で戦団を結成するという方式で1943年~45年の終戦時までに3万6千人にも上る戦闘力が形成された。インドネシアの独立宣言が行われてすぐに解散させられることになるが、その後開戦する独立戦争で活躍するのは役割を担う。


8月14日、日本がポツダム宣言を受諾したという情報をオンタイムで得ていたのは、情報統制をかいくぐって海外のラジオ放送を受信していた、反日独立運動の地下組織の若者たちだった。指導者を通じて早速、”一刻も早く、独立宣言を行う必要がある”と、帰国したばかりのスカルノ氏ハッタ氏を促したが、快い反応は得られなかった。


二人は、広島・長崎の原爆投下直後、ベトナムに滞在する南方軍総司令官から呼び出され、”日本はもう敗戦が迫っているからその前にインドネシア独立を認めたいが、日付は8月24日”といわれてきたばかりでもあった。約束を無視して独立を宣言することは戦闘になってもよいというようなものだから慎重にならなくてはならない。


もしも戦闘になったとしたら・・・郷土防衛義勇軍が先頭にたって戦うことになるが、まだ時期早々ではないか。日本軍との約束通りに独立を進める方が安全だ。日本が降伏したということについては、日本軍政官に会って確認しなくてはならない・・・


”先輩たちは、こんな緊急事態に未だ日本軍に忖度しているのではないか” 疑問を抱いたのが、反日地下組織のメンバーや義勇軍の代表者から構成される、若者たち。日本軍が降伏したという情報が出回って以来、各支部から、”独立宣言はまだか、まだか”と尋ねられ、落ち着かない状態になっている。


そこで、若者たちがとった行動というのが、深夜、スカルノ氏、ハッタ氏(9か月の長男を抱いたファトマワティ夫人も同行)を自宅から連れ出し、80キロ離れた村(Rengasdengklok)まで行って 日本軍の監視のないところで話合いを持つことだった。


そこで彼らは、日本軍がすでに降伏していること、”たとえ日本軍と戦闘になっても若者たちには戦う準備ができている”ことについて確認し、後から到着した独立準備委員会メンバーのスバルジョ氏の仲裁を通して、独立宣言は翌日、ジャカルタで行うことに決まる。


ジャカルタに戻ったスカルノ氏ハッタ氏がまず向かったのは、軍政官邸。日本が降伏したという情報の真偽と、ベトナムでの独立の約束について確認しようとするが、代わりに対応した部下から驚くべきことを聞く ”14日以降、連合軍から現状維持の命令が出ているので面会できない。日本にはもう独立を認める権限がない” 


これを聞いてカッと頭に血が上り、とっさに荒々しい言葉を吐いたのは、スカルノ氏よりも、日本軍への協力に当初から消極的だったハッタ氏の方だった。それなら何が何でも独立宣言を行う以外に道はないということを確信する。時間は既に22時。独立宣言の草稿に参加する代表者だけでもおよそ50人と若者たち。


草稿の準備中に、軍政当局から妨害を受けたり解散させられるようなことがあってはならない。そんな時、場所を提供してくれたのが、軍政官との面会に同伴していた海軍の前田少将。海軍武官府の邸宅であれば、軍政部は、海軍の施設内には踏み込む権限は持たない。


”わたしの処遇のことなど気にしないで。あなたがたが独立宣言を行う方がずっと大事ですから” 前田少将はドイツ駐留時代にインドネシア人留生と交流があり、またインドネシアが独立した後に政権を運営する人材を育成するための塾の創設にも関わり、中央参議院のメンバーたちからも信頼される稀少な日本人だった。また、日本軍が侵攻する前から調査活動のために駐留し、”スカルノをはじめとする民族活動家を協力者とするのが得策”と推薦したのも彼だった。


前田邸のダイニングで、スカルノ氏、ハッタ氏、スバルジョ氏、の三名が独立宣言の草稿を手書きで作成し、それを別の部屋で待っていた代表者たちの前で読み上げる。完成したのは17日の明け方だった。


当初の予定では、独立宣言はガンビル競技場で行われることになっていた。しかし、連合軍の命令で武器を持った日本軍が監視しているという情報がはいり、急遽変更となる。そのため、行進を行うはずだったメンバーは先に競技場にスタンバイしていたため間に合わず、行進なし、リハーサルなしのぶっつけ本番で式典はとり行われた。


スカルノ邸の庭いっぱいに集合した500名の待ち構える前で、スカルノ氏が短い草稿を読み上げ、ファトマワティ夫人が縫った、標準サイズにはちょっと合わない国旗を掲揚、指揮者も伴奏もなしで、一斉に国歌インドネシアラヤが斉唱された。


競技場にスタンバイしていたために遅れて到着したメンバーから、独立宣言をもう一度読み上げてほしいと求められたとき、”一度宣言したら永久に有効です”というスカルノ氏の答えに一同がワーっと湧くという場面もあった。


終わった直後に、日本人3名が入ってきて”独立宣言をしてはならない”と言うと、スカルノ氏は”もう宣言してしまいました”と答え、また一同がワーと湧く。大人数に囲まれてその日本人はその場をすごすごと去ったという。


それから”独立宣言がたった今行われた”というラジオ放送が流れる。それも、日本軍の公式ラジオ放送局から。30ごとに2度放送された後、怒った日本人が入ってきて止めるよう命令されたが、かまわずその後も放送終了時間まで流し続け、ついに鍵がかけられてしまった後は、新しい周波数を作成してニュースを流したという。


各地の地方紙は連日一面で報道し、各地の若者たちは自作のポスターを貼って回り、時には電車の車両に落書きしたりするなどの手段によって、独立が宣言されたことはこうして無事に国中に知れ渡った。


これら、独立宣言前後の一連の出来事は、”青年の誓い”と並んで教科書でも仔細に説明されているし、グループ学習で再現ドラマをやらされたりするほど、重要な教育課題の一つとなっている。これは、”独立は、外国から与えられたものでなく、たまたま得られたものでもなく、自分たちの意志によって勝ち取ったものだということを忘れないため”だという。


なるほどそういう意味があったのか。よくある”日本の侵攻のおかげで独立できた”といったような、おぼろげな認識に囚われていると、話がかみ合わない。どちらの側にもそれぞれの言い分はあるかもしれないが、こちら側ではこのように認識されているということは知っておいてもよいと思う。


ところで”わたしの処遇のことなど気にしないで”と言っていた前田少将についてだが、懸念された通り、後に命令に従わなかった罪で連合軍に逮捕され、投獄されてしまった。そして軍事裁判の結果は無罪、釈放された後は軍人をやめて一般人として生涯日本に住まわれたとのこと。


1976年にインドネシア政府から建国功労賞授与のために訪れたのが、戦後初めてインドネシア、そしてその翌年にお亡くなりになられたという。

インドネシア独立宣言までの歴史の中で、インドネシア人から賛辞が寄せられている日本人軍人は、ほぼ前田少将しかいないということを添えておく。