日本の終戦記念日の2日後が、インドネシアの独立記念日。広域に散在する島々を領土とし、様々な言語や歴史的背景を持つ人々(それぞれの民族がそれぞれの天皇を持っていると考えるとわかりやすい)が、一つの国を目指して団結し独立を勝ち取るまでの流れを辿ってみる。領土や民族、考え方の違いのために、繰り返される紛争や戦争が世界中にどれだけ沢山あるかを考えるとき、また、言論統制が強まる動きに息苦しさを感じる現代だからこそ、共有できるものがあるように思う。
建国の父スカルノ初代大統領が、民族主義活動に身を投じることになったエピソードの一つに、高校時代、同級生のオランダ人の女の子の家に結婚を申し込みに行ったら、彼女の父親から散々に貶められて罵詈雑言を浴びせられたことで、人種差別を実感した、というエピソードがある。20世紀初めのオランダ植民地政府は、倫理政策の一環として、現地人向けには職業訓練学校を作り、また現地人官吏の子弟男子限定でオランダ人の子弟のための学校に通うこと許可したり、オランダに留学する機会を与えたりという試みがあった。
植民地政府主導による強制栽培政策で、商品用作物ばかり植えさせられた結果、現地人が大量に餓死したという時代はすでに過去のこと、強制栽培政策で得た莫大な富によってオランダ本土では産業革命が完成していた。そのことは植民地においても変化をもたらす。
資本主義に基づいた農園業や炭鉱業などでひともうけしようとするオランダ人が大量に流入してくる一方で、現地人は貨幣経済の犠牲者へと堕ちていく。理不尽な借金のかたとなって、安価な労働者として劣悪な環境下での強制労働や無給労働、一方的な懲罰と差別、子女の誘拐や暴行。
政治には一切参加させてもらえない無力な現地人が、そういった問題について意見を言ったり抗議したりする団体を結成することは、倫理政策の下でも許されてはいなかった。そこで、イスラム教徒の商業団体や、医師らによる奨学金援助活動団体といった資本主義なら禁じようのないコミュニティーの結成が認められると、会員が爆増した。本来の実務的な情報交換だけにとどまらず、訴える場のない社会的な問題を議論する場としても発展していく。
何百万人もの会員が集まり影響力を持ち始めると、植民地政府からの干渉が入り、政府に従おうとする側と、反発する側に分かれて分裂。ついに後者(共産党系)が武装蜂起を起し植民地政府によって鎮圧される事件が起こってしまう。せっかく盛り上がってきた民族主義活動(良心的な動き)も、方向性を失って消沈するばかり。1928年スカルノ氏をリーダーとする青年たちが、政党を立ち上げて活動を開始したのはそんなときだった。
国民が力を合わせれば、武力に頼らない独立が可能だ、と説く彼らの呼びかけは、一連の状況に心を痛めていた良識ある大多数からの共感を得た。青年スカルノは、前述のイスラム教商業団体(民族運動)の指導者であった人物の家に下宿し、十代の頃から組織機関紙の執筆に関わり、第一線の民族主義者たちと議論を交わして培ってきた背景を持つ人物で、民衆にもわかりやすい例えを用いて核心をつく演説で、たちまち独立運動の第一人者として広く知られるようになる。
それに呼応して、各地の青年団体の代表者700人が集まり、共同宣言を行ったことは大変重要だ。各代表者がそれぞれの意見を発表した後、議会の決議としては、民族や歴史的背景は違っても同じ祖国を愛する者として一つの国になる意思を持つこと、一つの言語、マラユ語をインドネシア語とすることを誓った。宣誓の後で披露されたのが後に国歌となる”インドネシアラヤ”。
活動に加わる人それぞれが、それぞれの専門や立場から、できること必要なことを考え、自発的に行っていく。将来それが、現実の憲法になり、国歌となり、指導者となっていく。大抵こういう夢のある話は悲劇で終わるに決まってるという話の方がありそうと思ってしまいがちだが、そうでなかった例もあるのだというのは新しい発見かもしれない。それはその後20年あまりかけて、数々の危機的状況を乗り越えて根気強く実現されていくことになる。
彼らの政党がまともに活動することができた期間は、わずか2年半ほどに過ぎなかった。というのも、スカルノ氏を含む幹部7人が”公衆の秩序を乱した罪”でオランダ当局から逮捕されてしまったからだ。裁判の機会も与えられたが、法廷では自己弁明するどころか”インドネシアは、オランダの功罪を訴える”というスピーチをして、流刑罪となり、日本軍がオランダ軍を降伏させる1942年まで10年近く離島での生活を余儀なくされることになる。