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公開討論会はポリティックエンターテイメント 

 ”以前、私は高級な車をみると無償に腹立たしく思っていた。だから活動家になった。しかし現在、自分もそれを与えられてみると悪くない。高級レストランでの食事、これも悪くない…”学生たち相手にまるで汚職を奨励するかのようなスピーチをして話題になったことのある、投資調整大臣のバフリ氏。 副大統領候補討論会の主賓席で、プラボウォ氏が左後方に腕を差し出すと、低姿勢で一直線に近づいてくる男性、主賓は左側に身体を傾け、その人物の上着の襟をつかんで自分の方に引き寄せる。そんなマフィア映画のような乱暴な扱いを受けたにもかかわらずへらへらと笑顔でうなずいていた男性が、バフリ投資調整(インドネシアで起業する際に必ず許可を申請しなければならない省)大臣だったというのには驚く。撮影されていることに気づかずいつものくせでやってしまったのか。生中継というものはこういうところが面白い。(大臣は後に、兄と弟のような関係だから別に何も気にしていないと弁明した) 資金力と政権側のコネで圧倒的に有利なプラボウォ候補。大統領候補者として過去3回も出馬するほどの政治家でありながら、ディスカッションが苦手だ。愛国心と国民への忠誠心などといった理想論を語るときだけ勢いがいいが、具体的な質問をされると視線は泳ぎ、言葉もしどろもどろ。不都合な質問をされるとすぐに激情してしまう。 アニス候補は学術界出身。こういう討論の場こそが本領発揮の機会だ。2017年ジャカルタ州知事選挙の時は協力関係にあった二人だが、今回の大統領選では敵対関係にある。相手の弱点を容赦なく突き、混乱させた後、整った語調で正論を述べて、自らの見せ場に持っていく戦術は冷酷で合理的。つまり、観ている側にとっては、闘牛と闘牛士の対決のアトラクションを見物するような面白さがある。 一回目の討論会で、アニス氏は、倫理委員会から重度の違反という判定が出ているにもかかわらず、ギブラン氏を副大統領候補にしたことについて、二回目(間に副大統領候補者同士の討論会が挟まれるので実質三回目)の討論会では、プラボウォ氏が党首を務める政党の幹部らが取締役として名を連ねる会社を介した武器購入のマークアップ疑惑について、また、国民のためと口では言いながら、プラボウォ氏自身が43万ヘクタール(後に50万ヘクタールと修正)の農地を占有している矛盾について、ストレートに指摘した。 ”...

村長を制するものが選挙を制する 命がけの村長選挙

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 人口ボーナス期にあるインドネシアでは、村落といってものどかなばかりではないようだ。石の投げ合いや殴り合い、刃物や銃器が持ち込まれたり、村役場が破壊されたり、畑の真ん中で倒れていた血まみれの男性が発見されるといった事件も。原因は村長選挙だ。 登録が拒否された恨みや、支持者同士のいがみ合い、集計の不正や妨害、負けた怒りから、道路に壁を築き封鎖してしまう現村長がいたり、指定した候補者に投票しなかったことを理由に、貧しい人の住居を撤去してしまう地主。 #Pemilihan kepala desa riuch ”最近は誰でも彼でも村長になりたがる。村交付金のルールを見直した方がいい”と、スリムルヤニ財務大臣は言う。村落交付金というのは、村落の開発の遅れと高い貧困率を改善するため、中央政府から10~30憶ルピア(一千万円相当)の現金が分配されるという制度。ユドヨノ政権で成立し、ジョコウィ政権から本格的に始まり十年が経つ。 以前、村落は県や郡の下にあって優先順位が低かった。村落に中央政府から直接の資金を配分することで、橋の修繕や生活道の舗装などのインフラを整え、地域性を生かした生産的な活動を村単位で主導することで雇用を創出することを狙いとしている。果樹園や養殖所を開いたり、零細起業家への無利子貸し付けなど、村落交付金を活用して豊かになった村落が紹介される一方で、交付金に依存するだけの経済構造が出来上がってしまった村落も多いという。 ”村長さんが新しい車を買った、新しい家を建てた、奥さんが増えた” 村という狭い環境では、すぐに噂が広まってしまう。交付金が何に使用されたかその結果どうだったか、範囲が狭いだけに検証がより可能になるということはある。ところが現状は、通報窓口となっている郡や県政府の担当者が、信頼できない、通報したことが村長本人に知られてしまうという(警察の通報窓口と同じ)恐れから、政府が推奨する住民による監視システムは機能していない。 村長に対する不満が如何に積もり積もっているかということは、”村長の任期6年から9年への延長と村落交付金の増額”を要求して、村長連合が行った千人規模のデモに関する記事のコメント欄に、真剣なコメントが沢山寄せられていることからわかる。村職員服で、鉄柵によじ登ったり、タイヤを燃やしたり、ペットボトルを投げ込んだり、参加していた村長・村職...

2024年大統領選挙序章 大統領の息子が副大統領候補になった経緯

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 それまで通える距離に公立高校が存在しなかったために進学をあきらめるしかなかった山合いの集落に、ガラス張りのロビーにレンガ張りの外壁という公立高校にしては珍しいおしゃれな雰囲気の公舎が出来上がった。”同じ予算を使っても汚職がなければ、私立学校にも負けないくらい立派な校舎を建てることが出来るということを証明したい”という知事の意気込みによるものだった。 完成まじかの現場を訪れ、すでに仕上げの塗装がなされているガラスの下側の壁を一見、迷いもなく蹴りつけると簡単に穴が開いてしまう。他にも屋上のコンクリートのひび割れや手すりのサビ、タイルの隙間やコーティング剤が塗られていないことを確認すると、ポケットから携帯を取り出し”最初に約束したのと違う。やり直して。それとも裁判に持ち込もうか”と、その場で決着をつける。 これは、大統領候補の一人ガンジャル氏の中部ジャワ州の知事時代の仕事風景。地方のリーダーとして実績が評価された人物というときは、知事といえども現場に行ってこれをやってくれる人のことをいう。(先進国ではそんなことはあり得ないかもしれないけれど)隙あらば材料の質を下げたり手抜き工事をしようとする業者ばかりなので、いくら尊いコンセプトを綴ってはじめたプロジェクトでも、作業を担当職員に全て任せていたのでは、赤恥をかくことになる。 選挙戦に先立って任期を満了したガンジャル氏、現在は大統領候補者として毎日のように全国各地を巡っている。庶民性をアピールするために市場や下町を訪問するキャンペーンは、他の候補者もやっているが、普通は撮影が終われば切り上げるのに対して、ガンジャル氏の場合は地元の庶民の家に寝泊まりし、夜は村の小さな集会所の薄暗い蛍光灯の下で、昼は広場に広げたむしろの上で車座になって、地元の人たちと一緒にお弁当をたべる。 ジャワ弁特有の優しくゆったりと和やかな口調で語りかけ、打ち解けたところで、質問を募り、打ち明け話を糸口にして政策の紹介へとつなげるスムーズな進行は、プロの司会者も顔負けする。票をとるという目的なら効率があまりよくなさそうだが、これまで地元でやってきたことを、本気で全国に広げてやっていこうという誠実さをアピールする効果は抜群だ。 通常でも、家の近所で奥さんと一緒にジョギングしている姿を見物に来る人で人だかりができるくらい人気がある。闘争民主党の一党員か...

G30 から1998年スハルト政権退陣後まで 

 マイクで票を読み上げる人の声は、周囲から水を飲んだ方がいい、と言われるほど緊張していた。箱の中の紙を一枚ずつ開いて手渡す専門の係の人と、正の字をマーカーで書き入れる人。1999年、Windowsの2000年問題がまさに迫っていた頃だったので、この国ではあまり影響はなさそうだなどと思いながら観ていたのを覚えている。 ベトナム戦争や文化革命、日本でも学生運動運動が盛んになった1960年代後半、インドネシアでも左派系軍人のクーデター未遂事件(G30事件)があった。陸軍最高指導部の将校数人が深夜自宅で襲撃を受け、井戸の中に放り込まれたというショックな事件だった。事件そのものは不可解なところが多いので詳細は省くが、いなくなった上司の代わりに緊急事態の指揮をとって手際よく事件を鎮圧したのがスハルト。 事態収拾の権限を利用し、共産党を非合法化して解散させ、G30 事件に関わったとみなされる大臣15人と国会議員を拘束、入れ替えを行い、国会が大統領任命する法律(スカルノ大統領が長期政権を維持するために停止されていた)を復活させ、その承認をもって第二代目大統領の座に就くと、その後、32年間その座を誰にも譲らなかった。 テレビや新聞は、左派軍人が、如何に卑怯で残忍に、将校らを殺害したかの解説、射殺された将校の功績をたたえるニュースを繰り返していた。独立戦争の英雄だった将軍が射殺されたというショック、やっぱりあいつらヤバかったんだという恐怖心と扇動によるものなのか。民衆の間では、共産党狩り(共産党員又は共産党と関わりがあったと噂があるだけでリンチ・殺害される)が始まる。 スハルト政府は当然、これを放置し、”裁き”執行する村人は、何処から手に入れたのか共産党員とその関係者のリストも握っていた。犠牲者は50万人以上、又は百万人単位といわれ、それが将校殺害事件の後たった1年間の数字だというのが信じがたい。それも民間人同士が自発的に…遺体は道端や川、水路に投げ捨てられ、遺体の血で川の水が真っ赤に染まったという。#Pembunuhan Massal はじまりからして血と策略まみれのスハルト政権だったが、暗黒の時代はまだまだ続く。70年代中頃、田中首相がインドネシアを訪問したタイミングで、大規模な学生デモが起った。”今、外資が投下されれば大統領一族の私服が肥えるだけ。抑圧が強くなるからやめて...

パレスチナ問題についてイスラム教圏ではこう伝えられている

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 中東情勢パレスチナ問題が緊迫する度に出てくるのが、旧約聖書や古代歴史の解説。結構頑張って読んだのに、結局のところやっぱり宗教の問題だから難しい、という結論でなんだかもやもやしたことはないだろうか。 イスラム教圏側からだったら、どう伝えられているか?以外にもそれは、聖典の引用などではなく、とてもシンプルでわかりやすいものだった。中東問題を語るときの基本、それはオスマン帝国が支配していた何百年間もの間、”ユダヤ教徒とアラブ人は、争うことなく共存していた”ということだ。 ”トルコは何不自由のないところだ。ここでは自分のぶどうの木を持つことができる。明るい色の服を着ていても殴られたりしない。キリスト教徒の下で暮らすよりずっといい。” これは、宗教戦争のヨーロッパから聖地エルサレムに移住してきたユダヤ教のラビが、ドイツの同胞に宛てた手紙(Letter of Rabbi Isaac Zarfati)。 このラビの手紙に励まされて、その後何世紀にも渡って、ユダヤ人やキリスト教徒が、聖地エルサレムの近辺に移り住んできたが、イスラム教徒から阻まれるようなこともなく、アラブ人とユダヤ人、キリスト教徒は共存していた。”他宗教を迫害しない寛容性”こそが本来のイスラムの教えだと説明される。 ”しかし、シオニストは共存を拒否した”ということの意味はどういうことだろう。何万人もの移民が一度に押し寄せれば様々な問題が発生することは、現代の私たちにも身近な話題だが、やはり同じような問題が発生していたのだろうか?カタールのテレビ局アルジーラが製作したドキュメンタリーがそれを解説している。 シオニズム運動を支持するイギリスの軍隊がパレスチナを支配すると、元々パレスチナに住んでいた人々は厳しく取締られた。反対活動を行えば、投獄、追放、殺害、パレスチナ地域の指導者であったイスラエル市長なども、国外に追放されてしまった。結果、パレスチナは指導者を失った。 どんどん送り込まれる移民、イギリスは制限をかけたが守られなかった。移民してきた若者には特別訓練が施され、シオニストの軍隊ができた。これがまたアグレッシブな部隊で、イギリス軍と度々衝突したり、また、パレスチナ人の村々をスパイし調査したうえで、爆弾を仕掛け村民を殺害したり追い出したり、建国前から領域を拡大する作戦を展開していた。イスラエル建国が宣言され...

トップシークレットだった日本軍の敗戦 独立宣言前夜とスカルノ大統領夫人

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 20歳の年の差、先生と生徒の関係から結婚へ。後に若干22歳でファーストレディとなるファトマワティ夫人との出会いは、流刑先のスマトラ島西海岸のベンクル。将来の国の指導者になる人物から直々に教育を受けさせたいと、教育や学校設立を通してイスラム近代化を図る団体の活動家であった両親によって、寄宿生として預けられたのは15歳の時だった。 流刑中ずっと連れ添ってきたインギット夫人は、13歳年上で、学生時代の寄宿先のおかみさんだった人。前夫との間の子を連れていたが、夫スカルノとの間に子供はなく、寄宿生として預かることになったファトマワティを実の娘のように可愛がっていた。まさか、その親子ほども歳の離れた娘に愛を告白したのはスカルノ氏の方だったとは… ”多妻婚は受け入れられない”と、インギット夫人は自ら去っていく。(およそ15年後にファトマワティ夫人も同じ理由で夫スカルノから離れることになるのだが…) 折しも、スカルノ氏は、日本軍によって流刑から解放され、日本軍の協力者としてジャカルタでに行く。 彼女が20歳になるのを待ち、正式な妻としてジャカルタに呼び寄せ新婚生活をおくったのが東ペガンサアン通56番地(#rumah pegangsaan Timur No.56)の家。ここで第一子を妊娠中の夫人が、独立を迎える日に掲げる国旗をミシンで縫って準備していたという話は大変有名だ。それは、単に献身的な妻の鏡としての行動というよりも、民族主義、近代的な思想を持つ若者の一人として、彼女自身が祖国の独立に貢献したいという気持ちを持っていたということの表れであったというほうが適切だ。 ”青年の誓い”に参加した世代の青年たちは、スカルノ氏らが逮捕され流刑地に送られてしまった後、各自、地元で学校の設立にかかわったり教師として働くことで、独立運動を担う若い世代を育成する草の根的な活動を続けていた。自由、平等、民主主義、ヨーロッパ最先端の思想。 ファトマワティ夫人と同じ頃に学生だった世代は、その影響を大いに受けた世代だが、日の丸崇拝や日本語の使用が強要されたり、飢えと向き合い、兵補や労務者として無駄死させられることになるかわからない日々を過ごすにつけ、祖国の独立を達成させたい想いはますます強くなっていたことだろう。 インドネシア人だけの郷土防衛義勇軍に志願したのもこのような若者たちだった。日本軍か...

日本軍統治下で売国奴と呼ばれたスカルノ大統領

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 スエズ運河が開通してから、ヨーロッパからアジアへの船旅はより身近なものとなっていたようだ。オランダ語らしい船名のついた大型船から続々と降りてくるたくさんの西欧人たち。男性は帽子に白いスーツ、奥様方は、ワンピースに白手袋をつけた奥様方たち、といった正装で、お互いのビジネスの話などを交わし談笑している。植民地政府に赴任になった公務員や、輸出業者、農場や鉱山の経営か。すでに社交界の雰囲気だ。 船を降りたオランダ人は、オランダ人専用の邸宅街でオランダ人だけのコミュニティーで暮らす。子供にはオランダ語の学校、大人たちには社交クラブがあり、テニス、ゴルフ、遊戯施設やプールも完備されている。邸宅内の中庭で、お誕生会をしている子供たちの映像が可愛い。女の子は、ふわふわのワンピースに大きなリボン、男の子は半ズボンにサスペンダーといった服装。その頃のオランダ人の子供たちがとても大切に育てられていたのが伺われる。 POTRET KEHIDUPAN ORANG BELANDA DI INDONESIA YANG PENUH KEBAHAGIAAN DAN CANDA TAWA TAHUN 1930 -1940an #guruinteraktif #sejarah #penjajahanbelanda #hindiabelanda #sejarahindonesia #orangbelanda #orangeropa Video ini memperlihatkan kondisi riil kehidupan orang ... youtu.be そんなオランダ人たちのインドネシアでの生活を180度変えてしまったのが、日本軍による占領だ。植民地政府高官と軍の一部は、事前にオーストラリアに亡命していたが、大部分の民間人は残っていた。オランダ軍が撤退したことで、白人とみれば現地人から襲撃を受ける事件も発生しており、全ての西洋人はキャンプに収容されることになる。(オランダ人以外の西洋人もいたが、ドイツとイタリア国籍者は同盟国であるということからキャンプには入れられなかった) アジア人優先の方針により、日本軍は行政及び民間のオランダ人管理職者を全て排除し、現地人を昇格させて配下に置いた。そして、オランダ人の成人男性は全て強制労働員(ロームシャ)として、男性専用のキャンプに集められ、その妻...