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礼拝の音量と社会的不安は比例する ーマイノリティの生存術ー

礼拝所のスピーカー音量に関する
苦情は昔からあるけれど
最近、益々エスカレートしていて、

音量の大きさと、社会的不安は
比例しているのではないか?
そんな風に思っている。

何年か前までは「もうそんな時間か」
ぐらいの受け止め方ですんでいた。

大音量は、礼拝所の近くに住む人たちの問題で、
同じ宗教だから苦情などないのだろう。
と思っていた。

住宅街の周りには、
まだまだ広い空き地があって、
礼拝所のスピーカーの声は
その向こうから聞こえてくるものだった。

住宅街の中にも礼拝所はあったが、
広場の一角にこぢんまりしたのが
あるだけで、

スピーカーというのは、
大きな礼拝のときに、建物の中に
収容できない人たちのために
あるものだと思っていた。

ところが、開発が進んで、
空き地がどんどん埋まっていき
人口が増えてくると事情は違ってくる。

住宅街の一画にあったこじんまりした礼拝所も
いつの間にか建て替えられて、
アラブ風のタイル張りの巨大な建物が現れる。

そして建物の屋根よりさらに高いところに
スピーカーを設置する塔があらわれた途端、
目の前が真っ暗になった。

礼拝所のスピーカーは、
誰のためのスピーカーなのか?
礼拝所の中に収容できない
人のためのものでなかったことは
間違いないようだ。

もう数年毎日、その音量に悩まされている。
もはや昔のような素朴な拡声器ではなく、
格段に高性能な機器になっている。

ともかく窓を閉めて、家の中に籠る。
人によるのかもしれないが、
私は耳が痛くなる。

2区画も離れていてこれだ。
たまたま、礼拝所の広場のすぐ裏に住む
人の家で、礼拝の時間にその
音量を体験する機会があったが、
そのお宅と比べれば、
まだ軽度で済んでいると思わなければならない。

引っ越せばいい…と言われても
誰でもそう簡単に出来るものではない。
実際、礼拝所の近くは住宅の評価額も下がるが、
それでも苦情は言えない。

宗教大臣の定めたスピーカーの最大音量は100デシベル。
(長時間さらされると、聴覚にダメージを与えたり
難聴のリスクが高まる可能性があるレベル)

さらに、外向きのスピーカーを使うのは
呼びかけだけで、礼拝中は
建物内のスピーカーを使用するよう
規定されている。

残念なことに、法律はあっても
取り締まりがないので、
外向きスピーカーを使うかどうか?
どのくらいの音声にするか、
運営者側の方針次第だ。

思い出すのは10年前、礼拝の音が大きすぎる、
と近所の人に漏らしたことが原因で、
怒った群衆に家を襲撃された
一般人女性の話。

彼女が仏教徒だということで、
仏教の礼拝所も襲撃された。

直接言ったわけでもなく、
命令口調だった訳でもない。
具合が悪いので休みたいからお願いしたい。
と近所の人に漏らしたに過ぎなかった。

さらに理不尽なのは
彼女に「宗教侮辱罪」で
実刑が下ったことだ。

「宗教冒涜罪」とは
ー意図的に公の場で宗教を侮辱・冒涜する行為
を禁じるという法律。

しかし、何をもって「侮辱」とするかの明確な客観的基準がなく、

マジョリティであるイスラム教徒や、地域の保守派コミュニティが
「不快に感じた」「信仰を汚された」と主張すれば、
政治的・社会的な文脈によっていくらでも
「冒涜」として成立してしまう

地元の強硬派や多数派住の
デモや暴動、SNSでの炎上などを武器に、
本人には侮辱の意図が全くなかったとしても、
大衆の怒りを鎮めるための「生け贄」として
被告を起訴・有罪にすることが出来るという
少数派の意見を封じ込めるために利用可能な
悪名高い法律。

そして、裁判官が「有罪」判決を下す
根拠になったのは、
地方ウラマ会の発行したファトア(宗教的見解)
だった。

こういう時、どんな立場にある人でも、
非イスラムの人間が発言することはできない。
却って、炎上させる機会を与えてしまうからだ。

こういう事件についてのまともな
議論は、イスラムの穏健派組織や
イスラム教の知識人たちが声を上げるか
否かにかかっている。

​彼らの説くところによれば
「神への祈りや朗誦は本来、
個人の内面的な敬虔さを伴うべきもので、

周囲を威圧するような大声を、
予言者は明確に禁じている」
という。

つまり、大音量スピーカーの使用は
教義に沿ったものでないということだ。

むしろ「そういう誤った教えこそがイスラムを嫌われる宗教にしている」
「宗教者は、本来の教えの美しさに立ち返り、
他者への慈悲と配慮を示すべきだ」
という。

この見解が、大多数の人に支持されている
ということは確かだと思う。

穏健派の勢力範囲がもっと
広がってくれれば、むしろ
無宗教の国よりいい国になれるかもしれない。
時々そう思う。

しかし実際は
「昔からの慣習だ」として、
礼拝の一部始終を外向けスピーカーから大音量で流し、

音量を下げろと言われると、
イスラム教への攻撃・不信だと捉える
礼拝所の方がはるかに声が大きい。

実は、大音量に悩まされているのは、
非イスラムのマイノリティだけではない。

ソーシャルメディアで検索してみると、
「イスラム教徒だけど、大音量に悩まされている」
という投稿がいくらでも出てくる。

特に深刻だなと思ったのは、
道を挟んですぐ近くにある
両側の礼拝所からスピーカーの大音量が
同時にダブルで響いてくるというケース。

そして、我慢できず、苦情を言ったがために、
今まさに群衆に囲まれ小競り合いになっている
というケース。

結局は謝罪して法廷沙汰になるのを
避ける以外道はない。

一方で、外向きスピーカーを使わない
キリスト教徒が礼拝所を建てる申請を出しても
中々許可を得るのが難しい。

礼拝場所として個人宅を使用していたら、
村の世話役が来て解散させられた
という話も珍しくない。

そういうのをみると、
怖ろしくなってしまう。
感情に流されず
トラブルに巻き込まれないよう、
少数派としては、もうただ耐えるしかない。

それでは、のどかな田舎に行ったら開放されるのかというと
そんなことはない。
むしろ地方の方がもっと大音量だ。

建物は素朴でもスピーカーは高性能化している
風情も何もあったものではない。

「この国では、バリ以外に逃れられる場所はないんだよ」
そんなことを言っていた人もいた。

同じイスラム教でもマレーシアでは
もっと秩序が保たれているという。

インドでは、ヒンズー教徒の礼拝の大音量が
問題になっていると聞く
宗教という仮面が変わっただけ
特定の宗教を責めるつもりはない

結局、政治と宗教は密接しやすいので
一旦支配されてしまうと、秩序を保つことは難しい
ということだろう。

とかく人は声の大きい人、強気な人に
従いやすいものなのだ。

いくら考えても答えもなく、やれることもない。

周囲に見習って、気にしない訓練を心掛けている。

そして、
跪く訳でもなく、天を仰ぐわけでもないけれど、
大音量が聞こえてくる度に、
頭の中で1日5回、同じことを
確実に祈るようになってきた。

それは「真の裁きが下るように」
ということ。

それはわたしだけの祈りではない
宗教を超えた無意識の祈りが、
きっといつか現実の変化となって
現れる日がきっと来る。

「祈る」ということの意味が、
はからずも分かって来たように思える。